[掌編]


 地面のないその場所は、ほんの少しの明かりもない。上下左右、前後もわからない空間に、ただただ立っていた。何故そこに立っているのかなんて気にもせず、じっと目の前の女性を見つめる。
 毎日見る同じ夢。会った事はないはずだけれどどこか懐かしい気がするその女性は、感情の見えない瞳からほろほろと涙を流していた。
 ゆるゆると持ち上げた手が彼女に届くまで数ミリ。耳障りな音が響き渡る。その時、彼女の唇が動いた。

 上体を起こし、ぼうっとした頭で考える。汞[こう]。聞こえたわけではないけれど、確かに錫[すず]は俺の名を呼んでいた。こんな事は今までにないことで、何かの予兆のような気がしてならない。
 そこまで考えたところで、ふと疑問が浮かぶ。俺は会った事のない彼女の名前を知っている。姓は霧生[きりゅう]、名は錫。その名を聞いた覚えはないはずだ。
 ふと視線を落とし、握りしめた大きな目覚まし時計が指し示す数字にため息を漏らす。
「影見[えいみ]くーん。影見汞くーん。起きているか?」
 窓の外からは友人の声。家を出る時間の十分前だ。
「はえーよ馬鹿」
 窓を開けて文句を言いつつ、家の前に立って笑う友人に中に入るよう指示をし、扉に向かう。
 ふと、部屋の隅にある鏡と目が合った。その中には青ざめた自分の姿が映っている。
 ほんの一瞬だけ見えた気がしたその光景が頭から離れない。きっと見間違いなのだと自分に言い聞かせてドアに向かおうと足を踏み出した。
 頭を振ってもう一度鏡を振り返る。どうしたって忘れられるはずはなかった。そこにはナイフを握った俺と、その前に横たわった血まみれの錫が映っていたのだから。

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マガジン『世界の欠片』

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