ナイフ

[ショートショート]


 あれは夢だったのでしょうか?
 大学に向かう列車の中。
 私は二人と二人、向かい合わせで四人座れるボックス席に座っていました。私の席は通路側の進行方向を向いた席。彼女は斜め向かいのちょうど日光が当たる席。
 色は青白く、目鼻立ちははっきりとし、少し伏し目がちに本を読んでいたその目は鋭く、瞳は何をも映すことのないかのような漆黒で。
 私は彼女を一目見た時から何故か、ナイフのような人だ。と感じていました。

 ふと私は彼女がどんな本を読んでいるのか気になり、少しだけ、ほんの少しだけ、彼女に気づかれないように覗き込みました。
 例えるなら、満員電車で吊革に掴まった人が、前の席に座っている人の新聞を覗き見てしまう。あれと同じような心理でしょうか。
 幸い、その席には私と彼女の二人しか座っていなかったため、彼女にさえ気を配っていれば誰にも怪しまれずに済みました。
 覗き込んだ先、彼女の持つ本は、何やらびっしりと小さな文字で難しい言葉ばかりが並んでおり、その正体を掴む事はできませんでした。読めた文字といえば、「アーク」「箱庭」くらいでしょうか。表紙にもカバーが掛かっており、タイトルすらも知ることはできませんでした。
 しかし、読む事のできた数少ない、異様に小さな文字から察するに、私などでは到底お目にかかる事のない類の本なのだと推測する事はできました。その一方私が手に持っている物はといえば、「社会で役立つ言葉遣い」という、コンビニに売っているよくある薄っぺらな文庫本。この差は歴然としていました。

 それから三十分、終点に着くまでの間いくつもの駅に止まりましたが、私も彼女も降りる事はなく、乗客も増える一方で降りる人は少ないように思えました。
 終点は中心部でもありましたし、当然といえば当然なのでしょう。しかし、乗客が増え続ける中、不思議と私たちの席に腰を下ろす人は誰一人としていませんでした。
 初めは本を読んでいた私も、日差しの暖かさにやがてこくこくと船を漕いでは周りを見回し、漕いでは見回しを繰り返すようになり、そうしている間に彼女の事は頭の隅の方へ追いやられていきました。

 終点に着き、眠気の覚めない私はいつものように乗客がみんな降りるまで席に座って待つことにし、降りていく乗客を眺めていました。
 すると視界の端で、彼女が立ち上がるのがぼんやりと見えました。手に持ったそれは太陽の光を受け、キラリと輝いていました。
 私の目の前をすっと通り過ぎる彼女。その瞬間風に乗って、甘い、花か何かの香水でしょうか。きつすぎない、柔らかな香りが鼻先をかすめていきました。
 彼女が少なくなり始めた乗客の間をすり抜け入り口へと足早に進むのを眺めていると、私の視界から彼女が消えてしばらくしてから女性特有の甲高い悲鳴が聞こえてきました。私の座っているすぐ近くで男性がうずくまって唸っています。
 それを避けて逃げ去る乗客たちや声をかけながら近寄る駅員の姿を眺めていると、窓の外に彼女を見つけました。
 悠然と歩いていく彼女の手には、輝きを失ったそれがしっかりと握られていました。

 あの時の彼女の動きには不自然な仕草はなかったように思います。
 ただ息をするように、ただ歩くように、ただ読書をするように、彼女は一人の人を殺めたのです。

 細い手に握り締めた銀色に鈍く輝く、今は赤黒い雫を滴らせた、その奇麗なナイフで。
 まるでそれは物語のようで。例えば、彼女が持っていたあの本の中の出来事のようで。
 到底私には理解もできない類の出来事でした。

 しかしながら私はそれになる事を望んでいました。

 彼女の本のたった一行にも満たない登場人物の一人となることを。

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マガジン『世界の欠片』

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