時間を重力のようなものと考えてみる。
時間。僕たちはそれに追われたり、支配されたり、一喜一憂したりする。過去という点。今という点。未来という点。これらを直線で繋ぐから時間軸といったりもする。不可逆で、一方向に進んでいて、誰も止めることができない。生まれた時から、進んでいて、1人の人間には時間の限りがあったりする。それを寿命と言ったりして、自分の時間の持ち分がはっきりするから、今を大切にする理由になったりもする。時間軸には、区切りを独自設定することができて、それを期限と言ったりする。期限がないと仕事も宿題も永遠に終わらないだろう。あぁ、時間とは掴み所がないんだけど。何かこう圧倒的に人間を支配する概念なのだ。時計をみない人間はこの地球に何人いるだろう。
我々人間が何かを理解するとき、似たものを探したりする。それをアナロジーという。時間について似たものを考えてみる。不可逆で、掴み所がなくて、人間を支配しているもの。そう、重力だ。私たちは生まれた時から地球にくっついている。重力加速度を上手く利用して、二足歩行という技まで産み出している。重力も人間を圧倒的に支配する存在なのだ。そして、時間は重力のようなものではないか、という仮説に至る。重力は質量によって生まれるが、時間もまた別の質量のようなものによって生まれているのではないか。人間が時間軸ととらえているのは重力場ならぬ、時間場の一部であると。つまり、時間加速度のようなものがあり、どこかの方向に僕たちは引っ張られている。一見不可逆に見えるが、人間にはその矢印の方向を逆転させる力がないのだ。こう考えると、時間というのはいつも時計で見ているような「進む」ものではなく、どちらかというと「流れる」ものであり、力の場のようなものではないかと想像する。
時間。掴み所がないからこそ、想像が膨らむ。また明日も6時に起きないといけないから、時間の妄想はこれくらいにしておこう。
※記載内容は想像であり、科学的な根拠はとくにありません。
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