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「平凡」という言葉に涙した日のこと
昨日の話を書きながら、もう一つ思い出した忘れられない記憶。
はっきりした目的もないまま入学した専門学校で、さぼっているのか真面目なのかよくわからない日々を過ごすうち、学内のコンテストに入選したことをきっかけに何かしら意識が変わり、少しでも人と違うデザインを生み出そうとし始めた。
紙に書いた絵を立体に起こすことが可能なデザインが得意だったわたしは、装苑大賞や大き目のコンテストで選ばれるような、突拍子もないデザイン画を描ける人や、ぶっ飛んだ色使いのできる人を羨ましく思いながら、課題に取り組む日々だった。
そんな感じでデザイナーを目指し始めて、専門学生最後の年を迎えたある日のこと。
カリキュラムの課題であるワンピースを家で作っていた。
完成して「出来たーーー!見て~!」と、そこに居た父親に見せた時、父が言った一言。
「平凡だな」
次の瞬間、わたしは号泣していた。
泣き叫ぶという表現が適切なくらいの大泣きだったと思う。
ちょうどそこへ帰宅した母は驚いて、「いったい何があったの?!」と父に強い口調で尋ねた。
「俺は褒めたつもりだったんだけどな。。。」と小声で肩を落とす父。
人と違ってナンボの職業を目指してるのに、平凡だなんてサイテーのけなし文句じゃん!とヒックヒック言いながら訴えた。
そんな娘を目の当たりにして、さぞかし、辛くいたたまれない気持ちだったろうと察する。もし、わたしが親として同じ目にあった日には、一生後悔し続け、じぶんを責め続け、立ち直れないほど憔悴しそうだ。
しかし、ハタチのわたしには、親の気持ちよなど察する余裕などなく、ただただ、この道で突き抜けたかったのだと思う。その意気込みが父にも伝わっていると思いたかったのだろう。
ヒトは、身近な人に理解されたいと願うし、わかってくれてアタリマエと思い込む。
「ここに気づいてほしい」「こういう感じでこんな言葉で褒めてくれるはず」という気持ちが強ければ強いほど、的外れな言葉が返ってくると、ひどく傷つき、激しい悲しみか怒りとなって現れる。
悲しさと怒りの正体は一緒だと聞いたことがあるが、ホントその通りだ。
今のわたしが、そのワンピースを見ても、「平凡」と感じると思う。
でも、かつての父がそうだったように、それは決してけなし言葉ではない。
オーソドックスで品があってどんな場面にも合いそうなワンピースだね、と思うようなワンピースだった。が、ちょっと変わったデザインポイントには、一目では気づけやしない。あれに気づけるわけがない。そのデザインを活かす工夫が足りなかったのだと思う。
今のわたしが作るものも、一見「平凡」だ。
でも、今ならこう言える。
平凡は非凡。
平凡上等!
平凡だからこそ、ほんの少しの工夫や思いやりあるパターンメイキングから生まれる質の高さがモノをいうのだ、と。