遠い昔のせつないきもちが服づくりへと向かわせたのかもしれない
なぜ服を作り始めたのかという問いには、これまでこう即答してきた。
「家がビンボーだったから」
んーーー…果たしてそうだろうか。
と、今更ながらに思い起こしてみる。
亡き両親は堅実で贅沢をしないたちだっただけで、裕福ではないにしろ、とんでもなくビンボーというほどではなかったような気はする。
おそらく、ひとりっ子のわたしを甘やかさないためでもあったのだろう。欲しがるものを簡単には買ってもらえず、我慢を強いられた。
真っ先に思い出す鮮明な記憶を綴ろう。
世間では引き摺るほどに長いパンタロンやベルボトムのジーンズが流行っていた小学校4年生の頃、テレビや雑誌で見るアイドルたちも、学校に通う子どもたちも、みんなこぞってズボンの裾を引き摺っている中、わたしは、くるぶしが丸見えなくらいちんちくりんのズボンを穿いていた。変則的なストライプのデニム2本をとっかえひっかえ。
今の時代なら、クロップドパンツとして堂々としていられるが、当時はそんなふうには思えるわけもなく、ただただ自分のことをみっともないと感じていた。
細身だったわたしは、おととし買ってもらったズボンがまだ穿けるんだからという理由で、新しいズボンは買ってもらえなかったのだ。
ひとりだけ浮いてる自覚があり、恥ずかしくてたまらなかったのだが、「○○ちゃんのズボン、短いね」「なんでそんなに短いズボン穿いてるの?」というクラスメートからの心無い言葉に泣いて帰った。
「長いズボンが欲しい」と泣いて訴えた明くる日の朝、起きていくと「ほれ、これで2センチ長くなったぞ」と父から手渡された二本のズボン。
見ると裾がほどかれフリンジになっていた。
「アンタが寝てから、かーさんと二人でほどいたよ」
裾上げミシンをほどいたあと、横糸を何列も抜く作業は、相当時間と手間のかかる作業だったにちがいないのは、今ならわかるが、その時のわたしは、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
その時、どんな顔をして、何と言ったのかは憶えていない。
うれしい気持ちももちろんあったが、それ以上に悲しかった。「これでまた、しばらく新しいズボンは買ってもらえないんだな…」と。2センチ長くなったところで、まだまだ短い。ちょっとマシになったとはいえ、まさに、焼け石に水。
結局、その一年くらい後、スーパーのワゴンセールで少々難アリとされた500円のジーンズを買ってもらって、ものすごく喜んだことをよく憶えている。
よく我慢したと思う。
しかし、その後も欲しい服があっても、「みんなが持ってるから」という理由では買ってもらえないまま、わたしは高校生になった。
今度は、歳を誤魔化してディスコへ行くための服が欲しくて、友達と布を買いに行き、テキトーすぎるくらいテキトーに縫ったスカートに味をしめ、体育祭の応援合戦(ダンス)の衣裳、バンドの衣裳なども次々作った。
当時は型紙の作り方もわからず、市販の型紙や洋裁本も買えず、直裁ちで直線縫い、自己流でチカラ技でカタチにしては自己満足していた。
そうこうするうちに、高校3年生。大学進学か就職かを決める時期となったのだが、わたしはどちらも気乗りしなかったので、間をとって(どんな間だ?)服飾専門学校を選択したのだ。
自己流で服を作ることに楽しさを感じていただけで、将来の夢や憧れがあったわけではない。
専門学校は、入試無し、面接すら無く、高校の卒業見込み証明書と入学金だけで手続き完了したのが秋だったため、周りが入試や就活で必死になっている中、卒業までのほほんと過ごした。
ところが、専門学校に入学してみてビックリ。アタリマエのことかもしれないが、周りの子達は皆、何かしらの夢や希望を持っていたのだ。
デザイナーとかスタイリストとか。
いやいや、専門学校ってそういうとこだよね?とツッコみたくなるが、そういうカタカナ職業に憧れもないどころか抵抗すらあったわたしは、入学の動機を「家庭洋裁」にしたほど、ファッション業界には全く興味がなかった。自分が着る服装には興味あったけど。
それほど、「なんとなく」足を踏み入れた世界だった。
だが、その一年後には、デザイナーを目指すようになっていたし、それから40年近くの時が流れた今も尚、服づくり(広い意味ではファッション)を生業としている。驚きだ。
「ちょうどいい服」を追求するようになった元を辿ってみたら、あの日、両親が夜な夜なちまちまほどいてくれたズボンに行き着くことに、このnoteを書きながら気づいた。
ありがとう、note。
あの時、両親がしてくれたことは、決してケチなことではなく、素晴らしい知恵と工夫に満ちた、立派な行いだ。生きていてくれたら、今すぐにでも感謝を伝えたい。
今のわたしへと繋がる、切なくも胸が熱くなる遠い記憶。