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ぬいぐるみ歌会とぬいぐるみのはなし

 ちょっと前に、ぬいぐるみ歌会というものをした。早稲田大学のぬいぐるみ同好会さんの活動をTwitterではじめて知ったとき、わたしもなにかやってみたいという衝動に駆られた。そのときはとにかくぬいぐるみたちを集わせなければ、という気がしてた。

 ぬいぐるみたちがいる空間がすきだ。ぬいぐるみをぽんとほうっておくと、彼らは勝手におしゃべりを始めているし、いたずらをしようとしているし、ちょっと拗ねたりもしている。ように見える。だからぬいぐるみがいると空間がやわらかくなって、ちょっと息がしやすい。そして第一に彼らはとてもかわいい。わたしはモノであるぬいぐるみがもつそういうちからについて、ずっと考えたいなと思っていた。

 ぬいぐるみ歌会をやってみて気づいたのは、ぬいぐるみとその持ち主の関係はいろいろだな、というあたりまえちっくなことだった。わたしはぬいぐるみに短歌をつくってもらうということを普通のことだと考えていて、だからぬいぐるみ歌会を開くとなったとき、うちにいるぽってちゃんはすぐに短歌を詠んでくれたんだけど‥。それはわたしとぬいぐるみがけっこう考えとか感情を共有する関係だからで、ぬいぐるみにつくってもらった短歌をもって来てもらうという形式は、その関係を前提にしていたのかもしれないなとあとになってから思った。

 なにかをかくときは、わたしがその対象にたいしてどうおもっているか、ということしか確かなことがない。なりきりという行為は暴力的で、たとえばペットのうさぎを主体にした短歌を詠むことはわたしにはできないと思った。でも、ぬいぐるみなら普通にできる(していい)と思ってた。他者でありわたしだから。これはただのわたしのぬいぐるみ観によるものです。わたしはぬいぐるみの考えてることが手にとるようにわかるし、それぞれの声を代わりに発したりしている。ここから先は、ほんとうにただのわたしのぬいぐるみ観だよ。

 ぬいぐるみといる、ということは一歩まちがえると呪いになると思っている。他者ののろい。ほんとうは、わたしを嫌ってて、恨んでるかもしれない他者の目に(しかも大量)見られてるんじゃないかという不安におそわれるというのろい。だからわたしはぬいぐるみを絶対的なわたしの味方だとそれはそれはもう強く信じている。もし彼らにひどいことをしたとしても恨まれないし、結局はモノだからどう扱うかはわたしが決めていいとすら思っている。

 小さい頃からとくに大切にしていたぬいぐるみたちのことを、わたしは次第に忘れていった。高校にあがりわたしが家をでると、ぬいぐるみたちは袋に詰め込まれ、物置に閉じ込められてしまった。たまにうっすらと申し訳なくなることはあったけど、そのときのわたしには他に大きな問題がありすぎて、すぐに忘れることに努めてた。ほんとうに、かわいそうなことをしたよね。ぬいぐるみを大切にしないことはわたしにとってわたしを無視しているのと同じような自傷行為だった。
 大学生になってあるとき帰省すると、親と妹によってぬいぐるみが救い出され洗濯されていた。ぬいぐるみたちはしっぽとかを洗濯ばさみに挟まれて、さかさまになっていた。全然、怒ってなかった。まるまるちゃんどこいってたんじゃ?ワシは世界旅行とか行っとったぞと言われた。もう全然いないから心配したじゃないー!とか。

 ごめんねって思いました。でもそのままわたしは何ごともなかったようにその子たちの声をして、いっしょに過ごした。ごめんねとか言わなかった。仕方のないことだから。そのとき言った方が良かったのにね、たぶん。

 こんなことなどなどがあり、わたしはぬいぐるみとはそういう(どういう?)存在だと思っていたのだが、ぬいぐるみ歌会をひらいたことによって、他の方のぬいぐるみ観も少しだけ知ることができた。参加して楽しかったという声や、自分たちもやってみたいという声もいただいた。だからひらいて本当に良かったなと思った。ぽってもそう思う!
 とにかくみんなのぬいぐるみが集まる空間は幸せなものだったので、ぜひまたひらいてみたいなと思っている。

読んでくれて、ありがとう。みんなより


歌会のようす
うちで行われた歌会のよこうれんしゅう


 

 

 


 

 

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