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宝箱   4.ラリラリくん

 子どもを産み、「ママ」と呼ばれることはそれほど簡単なことではない。そのことを身をもって教えてくれたのは次男だ。次男は2008年の冬に、フィンランドで生まれた。長男は日本生まれなので、フィンランドで初めての出産は心細く、お腹をさすりながら雪道を恐る恐る歩いた。夏でも冬でも白い幹でただ立っている白樺が見守っていてくれるような気がして、そんな優しい子どもに育つように、日本語で「優しい樹」という意味の名前を付けた。

 生後7カ月で日本からフィンランドに移り住んできた長男は4歳半ともう大きく、地元の保育園に通っていた。日本では夫婦の共通語だからと英語で育てられてきた長男の言語の発達は遅く、それ以外でも何かと遅く、3歳になる頃に保育園で自閉症の可能性を指摘された。当時の長男は引き続きネウボラ(フィンランドの出産・育児支援施設)で経過観察を受けており、心配事が多かった我が家はやや暗かった。

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 元夫は次男こそは健常児であって欲しいと願っていたのか、生後間もなく活発に動き、声を出してよく笑う次男のことを「ほら見ろ、この子は普通だ。普通の子ってこうなんだよ」と無邪気に喜ぶことが多かった。次男を中心に、私たち家族はにぎやかに、明るさを取り戻していくように見えた。

 私は、いろいろ不思議な発達の仕方や謎の行動が多いものの、おっとりしている長男のことは、疑う余地がゼロではなくても、グレーゾーンではないかと思っていた。しかし自閉症に関する書籍は十冊近く読んでいたので、もしも長男が本当に自閉症で、それが遺伝性のものであれば、次男もこのままでは済むまいと身構えていた。

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 次男は、長男と比べて座るのも歩くのも早く、すくすくと平均的に育っていった。あとは言葉だけ。早くなんでもいいからしゃべって欲しい。そう願っていると7カ月ごろに「ラリラリラリラリ」「ロリロリロリロリ」と可愛らしい喃語を発するようになった。しかし、何をいっているのかさっぱりわからぬ。その喃語は頭のてっぺんから出ているのかと思うほどピッチの高い音で、その人間離れした可愛さに、私は録画したり録音して大変だった。

 が、それが1歳になり、1歳半になると、「ラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリ」「ロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリ」2歳になっても「ラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリラリ」「ロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリロリ」。普通の子どもであれば、二語文、つまり「ママきて」「ワンワンかわいい」といったような文章を話しはじめる頃、喃語はついにお経レベルに達した。

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 そうじゃなくて、と思い立ち、「パパ」「ママ」「カイト(長男)」とせめて家族メンバーの名前を仕込もうとすると、まず私のことを「ノ」と呼び、元夫のことを「ナ」と呼び、長男のことを「ト」と、ほんのつかの間、無理やりいわされている感満載でそう呼んでくれた。フィンランド語の挨拶なら「ヘイヘイ」がいえる。日本語でも「いこう」といって歩き出し、「あっこ」といって抱っこをせがみ、DVDが見たいときには「デリデリデリデリ」と伝えてくる。
 
 それにしても、〇ネッセの「〇どもチャレンジ」のDVDを見せているのに、そこからの言葉の学びが、長男の時と比べても少ない。耳はちゃんと聞こえているのか?次男が習得したなけなしの言葉が発せられる機会は少なく、「ラリラリラリラリ」をいっている時間の方が圧倒的に長かった。今日こそは何か言葉を教えようと頑張っているうちに、私の方まで「ラリラリ」いっている始末。フィンランド人の友達には「その『ラリラリ』って日本語でどういう意味?」と聞かれることさえあった。

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「大丈夫、この子はこの子のペースでちゃんと育っているし」という不安をかき消す自分の声が耳の中でエコーし始めたころ、次男の2歳児検診で、ネウボラを訪れた。私はネウボラおばさん(保健師)に次男の言葉の発達がおかしいと、初めて自分の不安を声に出して伝えてみた。
 
 おばさん、といってもお姉さんみたいな年齢の保健師さんは、「でもパパとママが英語で話して、上のお子さんにはパパがフィンランド語を、ママが日本語で話しているのだから、多言語環境ですよね?」とあまり動じなかった。フィンランドにはスウェーデン語を母国語とするスウェーデン語系のフィンランド人が5%ほどいるので、二か国語で育つ子どもの言葉の遅れの話は珍しくはない。しかし、私は「他の日フィン家族とも交流が多く、比べてみているのだが、それにしてもおかしい」と食い下がった。

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 それならばと、おばさんは私にこんな指示を出した。「お母さん、この子の後ろにさがってて下さい」と。そして彼女が次男の前に立ち、呼びかけた。
「ユウキ?」
反応が無い。
「はい、こっち見て!ユウキ!」
やはり反応が無い。
「お母さん、後ろから彼の名を呼んでみて下さい」
なまぬるい汗が出た。
「ゆうき?」
ふり向かない。
「ゆうき~!ママですよ~!」
ふり向かなかった。
「お母さん、お子さんは自分の名前が認識できないようですね」

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 だから、ラリラリしかいわないんだってば。ネウボラおばさんは、私に次男を言語聴覚士のところに連れて行くようにと、連絡先をメモ書きしてくれてくれた。私はそれを「Kiitos(ありがとう)」といって受け取ると、抜け殻同然で家路についた。

続く

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