俳曲 / I overlay U - 新しい(?)音楽の概念をつくってみた
Overlay
ヨルシカの春泥棒(https://www.youtube.com/watch?v=Sw1Flgub9s8)という曲に別のメロディーを重ねて遊んでみた。春の歌に夏の言葉を重ねる。
初の歌作り、メモ書き程度に
↓適当に録音したのを合わせたので閲覧注意です。春泥棒大好きです。夏泥棒しました。
歌詞
夏が来れば
ぱっぱっぱっ
花火が散りました
ああ僕ら、子どものままがいいや
はっはっはっ
笑い飛ばす君の
髪が揺れる
旋律が2つあるのに、どちらも聴き取れて、何らかのシナジーがあったら面白い。ハモリが同じだけ主張して、2つの違う流れがうねりながら上昇していく感じ
俳曲
曲をその曲たらしめるものは何かと考えたことがある。
リズム、コード、メロディの三要素+音色
ジャズのアドリブは、モチーフのコードの上にメロディを自由に描く。メロディのリズムをスイングさせてみたりもする。ジャズじゃなくても、キーを変えたり、リハーモナイズしたり(和声を変えたり)アレンジすることもよくある。雰囲気は変わっても、その曲はその曲のまま。最近よくシングル曲のリミックスが出る。違うジャンル風にアレンジされたり、サンプリングして繰り返したり、色々。ある限界点を超えなければ、リズム、コード、メロディ、音色を変えても、曲は原型を纏う。
その限界は、聞く人によっても異なるし、言葉にするのすら難しそうだが、どの曲にも、原型・核となるものを見出せると思う。
それは繰り返されるモチーフだったり、印象的なリフだったり、特徴的な和音であったり、それらの組み合わせだったりする。
ある日、「坂道のアポロン」というアニメの中で演奏される、My Favorite Thingsのピアノイントロにひどく感動した。(https://www.youtube.com/watch?v=ex46Nv5vi8g)の2:36~2:41のたった5秒に、何か美しい深淵な世界を見た。
曲のイントロというのは、大抵の場合、その曲と一対一で対応していて、その先の広がりを感じさせるものだと思う。BUMPの藤くんは確かイントロから曲を書くと話していた。ジャズだと、モチーフの終わりのコード進行からイントロを作ったりする(だと思う)。この5秒の後の演奏もすごくかっこいいのだが、イントロに心奪われて、そこだけ繰り返し聴いてもしばらく飽きなかった。
イントロだけ切り出しても、それはひとつの曲と言えるか。
何秒からが「曲」なんだろう。自分で作ってみる曲も、2年くらい前の当時、30秒ほどのものばかりだったこともあり、「余白のある短い曲」と、「イントロ」の概念が自然と結びついた。さらに、俳句に興味があった時期で、切れ字によって反芻する言葉の感覚的イメージと、それによる余白の広がりが、その二つの音楽の概念と交錯した。
俳句みたいな音楽を作れないだろうか。
京都の龍安寺の石庭では「自然」が庭の石の配置に抽象されているように、「ある曲を抽象した曲」を全ての曲に対して作れるのではないかと考えた。それは、作る人の数だけ、感性の分だけ存在して、おそらく何らかの共通点がある。たぶんそれが曲の本質に近い。
俳句+曲→俳曲
という仮の名前で呼んでいきたい。
ある曲を抽象した短い曲を、曲に対する俳曲とする。作る人の数だけ存在しうる。
それは俳句に通ずるような余白をもった響きをしている。
10秒ほどの短い音楽も、曲から切り出したイントロも、それ単体を完結した作品として見れば、それは俳曲であり、それが曲より先に存在すれば、逆に、その俳曲をモチーフに自由に曲を作ることができる。これも作る人の数だけあり得る。
誰かが提示した俳曲をきっかけに、他の人が作曲し始める世界を想像する。
あとがき
29日深夜、静かな世界にひとり、Jacob CollierのDjesse Vol.4をヘッドホンで聴いていた。
Djesse World Tour 2022 大阪で感じた、喉から身体が共鳴して音に溶けていくような感覚。昨年イギリスを旅して、ロンドンのUnion Chapelで”The Quiet Quartet” (Jacob, Madison Cunningham, Chris Thile) のSummer Rainに石造りの家の壁にかかる木漏れ日を見た思い出。Track1の100,000 Voicesには世界中のライブでの声が入っている。夜景の中の灯ひとつ分くらい自分の声も抽象化されて溶けているかもしれない。愛情を感じる。新しい景色にいる。生きることを讃えている。
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