多分、風。
ベランダに陽が差す。葉が明るく透ける。庭の植物は住み始めた頃よりずっと大きくなって、物干し竿の手前まで腕を伸ばしている。
ただ、”手前まで”で止まる。
道路に突き出す木の枝も、車に当たりそうなのに、ある程度の交通量があれば当たらないように生えている。意思があるように絶妙な距離感を保っている。「人が通れば道になる」ように、獣道の輪郭だって簡単に消えてしまわないのが不思議だ。
触れていなくてもはたらく力がある。
半年ほど前、部屋に小さな羽虫が数十匹発生したことがあった。おそらくゴミ箱のキャベツの切れ端から増えたんだろう。取っても取っても起きたらまたその分増えている。麺つゆに食器用洗剤を垂らした浅い紙コップをキッチンに放置すると、3日ほどで1匹残らず駆除できたのだが、どうも虫は部屋の動線を避けるように、テレビ台や本棚、扇風機の足元に集まる傾向があった。扇風機でテレビに向けて風を送ると、反対側へ移動した。
人が動くと風が吹く。すると境界ができる。
どれだけ些細で緩い風でも、動植物はそれを感じて、避けるように場所をとる。そんな気がする。風の通り道に身を投じておくのは骨が折れるのだろう。夥しい数の信じられないくらい小さな粒に猛アタックされるんだ。そりゃ避けた方が楽だよな。
人でもそうだ。誰かの後ろに着いて歩けばぶつかることはない。人が歩くと”流れ”ができる。人流に乗る方がエコだ。目で見なくとも、過ぎ去る人が切った風と音は感じる。川の魚も、人気なのは急流の横の緩やかな流れの場所。
生きていれば場所をとる。動けば風をつくる。その対流を心のどこかで感じて歩いている、気がする。
動いている者は流れに乗り、止まっているものは流れの横に立つ。
それは乱雑さというより、緩やかな空間の繋がり。静と動の間。高気圧と低気圧の間で風が吹くように、二つの境界には風が生じていた。何か大きなちからを空想した。
なないろの青に朝日が昇って、鳥たちが一斉に飛び立つ。
風がごぉっと吹いてきて、後ろで葉が擦れる音がする。
朝と夜のすきま、
世界かざわめき出す。始まりのあったかさ。