口話は悪者?①
聴覚障害に関する数々の議論の中で、批判されやすい口話。口話は本当に悪者なのでしょうか?
こんにちは!くつばこ+のせんです。今日は母校の定期演奏会の手伝いに行ってきました。懐かしの同期や先輩後輩に会えるのは、嬉しいものですね。
☆うたのnoteを受けて
昨日のうたのnote、読んでいただけましたか?
・喋れることがわかっている聴覚障害者に対して、「喋れるなら喋った方が楽だよ」というのはそこまでだめなことなのか?
・ろう文化を大切にしたいから話さないという人もいるけど、どっちかしか使わないってもったいのでは?
という意見が書いてありました。今日はここから少し膨らませて、喋ること・口話についてせんの意見を書いてみようと思います。
☆口話の問題点
口話を否定するわけではありませんが(そもそもせんは口話なので)、口話の問題点はいくつかあると思っています。
本や当事者の体験記などを読むと、聴力が重ければ重いほど口話には限界があること、中には体罰に近い口話訓練も行われていることなど、負の面があることがわかります。
大学の授業で扱った論文に、「コミュニケーションは、互いに等間隔の距離にあり十分理解できる方法で行われなければならない」と書いてありました。これを見ると、口話だけのコミュニケーションが、聴覚障害者同士や聴覚障害者と聴者との会話に、「最適な方法」とはならない理由がわかると思います。音声は聴者のもので、特に高度重度の聴覚障害者が口話でコミュニケーションをとると、欠ける情報が多くなりやすい。そして、口話との距離は聴覚障害者と聴者で大きく異なります。仮にお互いの話を理解する完璧な方法がないとして、お互いが同じだけ努力して、得る情報量が等しければ、不便かもしれませんが軋轢は生まれないと思うんです。どうすればよりスムーズにやり取りできるかを、お互いが考えて工夫するようになるはずなので。
でも、口話は圧倒的に聴者のためのもので、聴覚障害者が合わせに努力してる状況。みんなが手話ができる世の中だといいのかもしれませんが、現実そうはいきません。ここはやっぱりマジョリティとマイノリティの壁で、どうしても多数派が過ごしやすいような社会になっています。
☆マジョリティに合わせる方が生きやすい時もある
「多数派が過ごしやすい社会」って、実は当たり前のことだと思うんです。多くの人にとって便利になるように、日々いろんなものが変化しています。多く人が便利に使える方法が主流になるのは当然で、これ自体は悪いことではないですよね。
そう考えると、喋れる聴覚障害者に口話を勧める理由は、聴者が便利だからの一択、というわけでもないとせんは思うんです。つまり、「マジョリティが過ごしやすい社会の中で生きていくには、そのマジョリティが使う口話を使った方が、聴覚障害者自身も便利だろう」という理由もあるのでは?ということ。これに対しては賛否両論(当事者側は否が多い予想)あることは理解しています。せんも、この理由が100%正しいとは思いません。でも、中等度難聴で日々口話でコミュニケーションを取っている当事者としては、より多くの人に伝わる口話は、やっぱり便利なんです。この手段を持っているなら、「使った方が楽なのでは?」と思うのは、当然のことなんじゃないかなと思います。
と、ここまで書いたところで、まだまだ長くなりそうなので一旦今日はここで切ろうと思います。もやもやが残るnoteでごめんなさい。続きも読んでもらえたら嬉しいです!
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