痛みを紡ぐ女(5/7)
5/7
「父さんを灰皿で殴って気絶させたあと、兄さんと義姉さんを呼び出して殺した。父さんの目の前で。そのあと父さんを殺した。アハハ……見てください」
紡は泣きながら笑った。
「家族を支配して、嬲った。私は、私が一番憎んだ男と同じになったんです。今」
櫃児は両膝を床についてそこに手を置いたまま、口をぱくぱくさせた。どうしていいかわからず、櫃児は思ったことを言った。
「紡さんはキレイですよ」
紡は渾身の力で櫃児を殴った。
櫃児が短い悲鳴を上げてフローリングに倒れると、紡はその腹を蹴り上げながら喚き散らした。
「ふざけんな! あんたに何がわかんのよ! いつもヘラヘラして! あんたなんか……中身は何にもないくせに!」
蹴るのに疲れ、紡は息を切らせた。表情は憎悪に歪んでいたが、泣いていた。
両腕で頭と腹を守っていた櫃児はそこそこ無事だった。紡は非力な人間の女だったし、何よりも櫃児は殴られることに慣れていた。櫃児は彼を捨てた実の親にも殴られていたし、施設の子どもたちにも、学校のクラスメイトにもいつも殴られていた。
櫃児はその姿勢のまま大きな声で言った。
「紡さんの中にはいっぱいキレイなものがあるんですよ! 僕は知ってるんです!」
肩で息をしながら紡は言った。
「どんな?」
「僕が殴られて帰ってきたときにバンドエイド貼ってくれたじゃないですか。そのあと僕の好きな赤ソーセージの入ったシチューを作ってくれたし、服も洗ってくれました!」
「……それだけ?」
櫃児は元気に笑った。
「いつもキレイな服を着てるし、靴がピカピカだし。あ! あと、僕にマニキュアの塗り方を教えてくれました。いつも塗り方とか色がキレイって褒めてくれます! だから……紡さんはキレイだと思う!」
紡はしばらく櫃児を見下ろしていた。
やがて大きく息をつくと、ソファに座り、手を差し出した。
「爪を塗ってください」
櫃児はニコニコしながら答えた。
「はい。喜んで」
「塗り終わったら、あなたは自由。どこへでも行きなさい」
コスメケースを開きながら櫃児は言った。
「ここにいます」
「なぜ?」
櫃児は不思議そうな顔をした。
「え? えっと……自由だからです。ていうか、僕はずっと自由だと思ってましたけど」
「そうですか」
紡は涙を拭った。
紡は社に電話し、父親は兄夫婦の旅行に同行したと告げると、後は知らぬ存ぜぬを貫き通した。
陳腐な偽装工作だが少しは時間を稼げるだろう。そのあいだに財産を現金に変え、それを持って市《まち》を出る。櫃児ともに永遠に天外から消えるのだ。
紡は初めて人生に希望を得た。櫃児と一緒なら、この雨ざらしの地獄を出て行けるのではないかと。
父たちを殺した翌日、逃亡を目前に控えていた紡は、ツバサ重工の上層部に呼び出された。幹部の酒宴に出て欲しいとのことだった。
その席には櫃児も出席させられていた。櫃児は紡の目の前で拷問され、殺された。パーガトリウムの拷問など飯事《ままごと》に見えるような凄惨極まりない拷問だった。
その直後、紡はある闇撫家の血族によって血族にされた。
* * *
「紡さん?」
紡ははっとして物思いから覚めた。先ほど奪った車の中だ。自分はハンドルを握り、助手席に桂馬がいる。紡は指で目頭を揉んだ。その眼球は人間と同じものに戻っている。
「ああ……ごめんなさい。ちょっと櫃児くんのことを思い出してて。あなたに事情を説明しなきゃいけませんでしたね」
紡は櫃児の死後、自分が血族と呼ばれる人外の存在となったこと。そしてツバサ重工を裏から操る血族の組織、血盟会の一員となったことなどを話した。
桂馬はいつものように、整ってはいるが無気力な顔でそれを聞いていた。
「あのドリルのヤツと櫃児の死って、何か関係あるんですか」
「見てたんですか。しょうがないコですね」
紡は思案げな顔をした。頭の中で言うべきことと言わないことをまとめているのだ。
「簡単に言うと、血盟会が櫃児くんを殺したんです。だから私は血盟会を裏切って逃げた」
「へえ」
「驚きませんね。櫃児くんが死んだって言ったときもそうだったけど」
「いやあ。櫃児はああいう性格だったし。そのうち死ぬんじゃねえかって思ってました」
「そうですね……」
桂馬の家に戻る途中の道は渋滞していた。天外市警が大通りに交通規制をかけている。ラジオの交通情報によれば、近くの高校で高校生が密造銃を乱射する事件があったそうだ。今年に入って似た事件がもう三度目だ。
紡は何か思いついたらしく、必要以上に大きく回り道をした。途中ケバブ屋でケバブサンドを二人前買い、天外港へと向かった。
天外の海は工場から出る廃油で真っ黒だ。ほとんど波立たないのっぺりした海面は、曇り空の鈍光を浴びて薄汚い虹色に光っている。桂馬は子どものころ、この海が怖かった。見ていると底無しの暗黒に引きずり込まれるような気がして。
紡は車を人気のない埠頭に停めた。天外湾を挟んだ向こうに、汚染霧雨にぼやけた高層ビル群が見える。それを見ながら二人はケバブサンドを食べ、コークを飲んだ。
紡が言った。
「いつだったか、この海を櫃児くんと一緒に見に行ったんです。今日と同じように道が渋滞してて、遠回りがてらね。彼はキレイだと言ってました」
「この海が?」
「ええ。ここから見える海も市《まち》も、私も、みんなキレイだって」
桂馬は櫃児のことを思い出した。
あの少年は透明で、空っぽだった。何を聞いても答えはだいたい「わからない」「考えたことない」。服の趣味も、好きな食べ物も、何をしたいかも、誰に会いたいかも。
あの少年の中には何にもなかった。
だが優しかった。学校で困ってる人がいれば必ず手を差し伸べた。カネを貸してくれと言われたら持っているだけ差し出したし、女子に付き合ってくれと言われたら誰だろうが付き合った。
そんな性格だから、いつも誰かに殴られたり恨まれたりしていた。なまじ美しい顔をしていたのは、櫃児にとって不幸でしかなかった。
(((なあ、あの女。あれさ、明らかにヤベー女じゃん)))
桂馬は櫃児に学校で聞いたことがあった。
(((あんなのに飼われてて平気なのかよ)))
櫃児は嬉しそうに笑って答えた。
(((紡さんはいい人だよ!)))
(((カネで高校生を買うのがいい人か?)))
(((うーん……わかんない)))
櫃児の人物評は〝いい人だよ〟と〝ホントはいい人なんだよ〟の二つしかない。こいつはいつか悪人に騙されて早死にするだろうと、桂馬はこのときから確信していた。
櫃児はニコニコしながら言った。
(((紡さんは「マニキュアを塗るのが上手ですね」って褒めてくれるんだ。僕が塗ったマニキュアの色を、いい色だって言ってくれた。僕を褒めてくれた!)))
(((誰にでも言ってるだろ、そんなの)))
(((でも、いい人だもん。僕は好きだな)))
話が通じない、と桂馬は思った。櫃児に見えている世界は他人とまったく違っていた。この海すらも、あの少年には美しく見えたらしい。
ケバブを食べ終えると、紡は後部座席からコスメケースを取り、膝の上で開いた。
二段式になっており、上の段は化粧品が詰め込まれている。下段を開くと札束、緊急用のスマートフォン、ナイフ、得体の知れない薬物などが入っていた。紡は札束を一つ取って桂馬に差し出した。
断るのも面倒だったので、桂馬は黙って受け取った。親指で無関心に札びらを切ってもてあそびながら言った。
「で、復讐するんですか。櫃児を殺した、その……何だっけ。血盟会とか、上司とかに」
「ええ。しようと思ってます」
紡は車を出し、桂馬の家に向かった。住宅街に入り、桂馬の家が見えてきたとき、紡は何気なく路肩に寄せて車を停めた。汚染霧雨に覆われた灰色の町並みに眼を凝らす。
「バレたみたいですね……あなたの家に追っ手がいる」
「え?」
桂馬にはいつも通りの我が家に見えるが、紡には見えているらしい。あの尋常でない力を見た後では彼女を信じるしかなかった。
「どうするんですか」
「うーん……」
紡は舌なめずりをした。
「返り討ちにしちゃいましょう」