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【戦争&吸血鬼小説】無人地帯の吸血鬼(2/2)
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2/2
ドイツ兵の手は俺のコートを触れ回り、ポケットに入った。
そして俺の煙草を見つけ出すと、ドイツ兵は嬉しそうな声を上げ、俺の背中を叩いて言った。
「ダンケ、インゼルアッフェン」
俺の知っている単語だった。〝ありがとよ、イギリス野郎〟
シュッとマッチを擦る音がし、煙草の煙の臭いがした。
ドイツ兵たちの話し声が遠ざかって行く。
死体から煙草を盗りに来ただけのようだ。まさか生きたイギリス兵が混じっていたとは夢にも思うまい。
足音と話し声が聞こえなくなると、俺は全身で安堵のため息を吐き出した。
まったく、呼吸をするのを忘れてそのまま本当に死体になっちまうところだった。
「悪いな。ありがとよ」
俺が仲間たち、つまり死体の山に言い、そこから下りようとしたときだった。
運搬車がギシッと嫌な音を立て、車体が傾いた。俺は悲鳴を飲み込んだ。
大きな音がして運搬車の車軸が折れ、俺は死体と一緒に地面に投げ出された。
(ヤベ……)
急いでガキを押し上げ、塹壕を這い上がった。
だがそのとき、俺の煙草を咥えたドイツ兵たちが駆け戻ってきた。呆気に取られたそいつの口から煙草が落ちた。
何事か罵りを上げてドイツ兵は小銃を構えた。
甲高い銃声がし、塹壕を這い上がろうとしていた俺のすぐ横で砂袋が弾けた。
俺は死に物狂いで塹壕を這い上がり、ガキを抱えて走った。
数メートルほど行ったところで頭からぬかるみに飛び込んだ。
塹壕ではドイツ兵が大騒ぎを始めていた。
警笛が鳴らされ、小銃が次々に火を噴いた。
だけど月も星もない夜だったから、向こうは俺を見失っていた。
機関銃の銃手は地面にZ字を書くようにめくらめっぽう乱射した。俺のすぐ横の地面が立て続けに弾けた。
「うおお!」
俺はガキを引きずりながら必死に這った。
ロダリックのいる穴ぼこに向かっていたはずだが、すぐに自分がどこにいるのかわからなくなった。
パッ、パッと照明弾が上がり、一瞬、周囲を昼間のように明るく照らした。
だが俺はそのころにはどうにか斜面の影に潜り込んでいた。
俺はガキに言った。
「自分で匍匐しろ! こうだ!」
「あー」
「こうだ、ほら! やってみろ」
「あー? うー」
どうやら言っていることが少しはわかるらしい。ガキは俺の真似をして匍匐前進し、あとをついてきた。
幸いにもドイツ兵は深追いして来ず、塹壕から撃ちまくってくるだけだった。
あいつらも無人地帯《ノーマンズ・ランド》に出るのが怖いのだろう。どこに敵が潜んでいるともわからない、不発弾と鉄条網と地雷だらけの荒野なのだから。
俺は休みもせず、息もつかず、ひたすら塹壕沿いに北を目指した。
ガキはちゃんと後をついてきた。想像以上に体力のあるやつで、泣き言も言わず、休もうともしない。
ドンパチの音はやがて遠くなり、銃火の灯りも見えなくなった。
「ハハハ! 一発も当たらなかったぜ!」
俺は匍匐前進しながら大笑いした。
「やっぱり俺はヒーローだ! まんまと逃げおおせて、こうして生き延びてる。マジのヒーローじゃねえか、なあおい……」
「ひーろー?」
ガキが言った。
ガキが俺を見るその緑色の目には、好奇心の光がありありと見えた。イギリス人が珍しいのだろうか。
「ひーろー!」
「そうだ。俺はヒーローになって故郷に帰るんだ」
ロダリックのことが気にかかった。
生きているといいが……俺のせいで危険に巻き込んでしまった。
それから何時間前経ったか。
匍匐前進を続ける俺の両腕両足は感覚を失って鉄の棒のようになり、地面と擦れた腹側がひどく痛んだ。
だがC中隊の陣地はもうすぐのはずだと自分とガキを励まし、休むことなく、無心に先へと進んだ。
夜が白々と明け始めた。
塹壕は切れ目なく延々と続いている。
俺は息を切らせて止まり、顔を上げて様子をうかがった。もうとっくにC中隊の陣地に入っているはずだ。
俺は塹壕のほうに近付いて目をやった。灯りが漏れている。
「よし、あそこがC中隊の陣地だぞ」
ガキはきょとんとした顔で俺を見返した。
「あー」
とは言え今すぐ帰るわけには行かない。
先にも行った通り、機関銃の銃手は夜の無人地帯《ノーマンズ・ランド》で動くものがあれば敵味方を区別する前にまず撃つ。
暗いうちに出て行くのは自殺行為だ。
俺は呟いた。
「夜が明けて明るくなったら、白旗を作って、それを持ってだ。オールド・ラング・サイン(*)を歌いながら出て行こうぜ。でないとキャベツ野郎《クラウト》(*)と間違われて撃たれちまうからな」
俺は敵陣を突破して生還したヒーローとして仲間たちに受け入れられる。
酒と煙草を奢られ、噂を聞いた兵士たちは俺を見れば驚き、尊敬のまなざしを向けて、あのときの話をしてくれとせがむだろう。
と、そのとき。
ガキが突然、ズボッと地面に潜り込んで消えた。
「ああああ!」
俺はあわててガキが消えた穴を覗き込んだ。
地面に周囲の土砂が引きずり込まれるようにして出来た大穴だ。真っ暗で何も見えないが、あの刺激臭がした。
塩素ガスだ。
恐らくイギリス軍がドイツ軍の塹壕に向かって地下壕を掘ったのだろう。
敵軍陣地の真下に爆弾を仕掛けて吹き飛ばすという作戦で、両軍ともにしょっちゅうやっていた。
ドイツ軍側はそれを察知し、横穴を掘って繋げ、塩素ガスを流し込んだのだ。そうして仕方なく塞がれ、放置された地下空洞だ。
こんな場所は無人地帯《ノーマンズ・ランド》にいくつもある。
ガキは運悪く雪庇のように脆くなったその天井を踏み抜いてしまったらしい。
ガキの悲鳴と咳き込む声が地下の虚空で木霊している。
俺はもちろんガスマスクなど持っていなかった。
こうしているあいだにもガキは喉と目を焼かれている。窒息死まで間もなくだろう。
考えている時間はなかった。
(俺はヒーローだ!)
俺は懐から布を取り出すと、それをズボンの中に入れて小便で漏らした。そして小便に浸した布切れを口元に巻くと、意を決して地下壕の中に潜り込んだ。
学術的なことは知らないが、これが即席のガスマスクになるのだ。小便の成分が塩素ガスを中和するらしい。
もっとも湿った布越しでは息がほとんどできないので、ほとんど気休めに過ぎないが。
俺は塩素ガスが入らないように目を閉じた。どうせ穴の中は真っ暗だから何も見えない。
ガスが染みて猛烈に喉が痛い。激しく咳き込み、嘔吐しそうになりながらも、手探りで暴れるガキを見つけると、体のどこかしらを掴んで崩れた穴の斜面に戻った。
斜面の土砂はアリジゴクの巣のようにもろく、崩れやすかった。
二度ほど滑ってはずり落ちたが、俺はどうにかガキと一緒に穴から這い出した。
地上に出ると布切れを投げ捨て、地面にうずくまって空気を貪った。俺とガキは一緒に激しく咳き込んだ。
その音はイギリス軍にも聞こえたらしい。
「誰かいるぞ! あそこだ!」
聞き覚えのある英語が聞こえた。
そして機関銃の射撃が始まった。
俺は叫ぼうとした。ここにいるのはイギリス軍のアルヴィン・マクファーソン上等兵だと。
だが塩素ガスで喉が焼け、何も喋れない。声が出ない。
機関銃、そして歩兵の小銃が猛烈に火を噴き始めた。銃声が耳をつんざく。
投げられた手榴弾が近くで炸裂した。
突然、左腕に思い切り殴られたような衝撃が走り、すべての感覚が一瞬で消えた。真っ赤な血がほとばしった。
銃弾を食らったのだと遅れて気付いた。
この俺が食らったのだ。ヒーローの俺が。
「俺はイギリス軍だ!」
そう叫んだつもりだった。だが実際は焼けた喉からかすれた音がしただけだった。
(俺も普通のヤツと同じように死ぬのか? そこらへんに転がってる死体と同じに……? そんなわけないだろ! だって……俺は、俺だ。俺はヒーローだ! 他のヤツとは違うんだ……)
俺はぼんやりと考えた。
もうロダリックのこともガキのことも頭から消えていた。俺が死ぬという現実を受け入れられないまま、俺はその場にうずくまっていた。
怒りやら絶望やら、わけのわからない感情が渦巻いていた。
そしてそのとき、俺はその臭いを嗅いだ。
霧の臭いだ。
故郷では初冬の明け方になると、こういう凍り付くように冷たい霧が町中を覆うことがあった。長く無慈悲な冬の訪れを告げる霧だ。
俺は顔を上げた。銀色の霧があたりに満ちていた。
「ギャアアアアア!」
すさまじい悲鳴が塹壕のほうで上がった。
夜明けの日差しの中で俺が見たものは、迫撃砲が命中したように何メートルも空高く舞い上がったイギリス兵の姿だった。
その兵士はバラバラだった。手足がちぎれ、体が真っ二つになっていた。
「うわあああああ?!」
「な……なんだ!? 何か塹壕ん中にいるぞ?!」
塹壕の右から左へかけて順番に、トマトを潰したように中から血の飛沫が上がっていった。
誰かが霧を伴って移動しつつ、兵士を片っ端から殺戮しているのだ。
俺はその光景を呆然と見ていた。
塹壕から上がるイギリス軍の悲鳴は、正気の声ではなかった。
まるでこの世のものではない怪物を目の当たりにしたかのような……
兵士たちの悲鳴は続いた。
「あ、当たらねえ!? 弾がすり抜け……ゴボォッ!?」
「うわああ! か、神様ァア……」
やがて静寂が訪れた。
ずいぶん長く感じられたが、実際は一分以下だっただろう。
俺はただ静かに呼吸をしながら、その場に腹ばいになっていた。
「まま」
ガキが咳き込みながらそう言った。
「まま!」
ガキは立ち上がり、イギリス軍塹壕へ小走りに向かった。
俺はただその背を見つめていた。
ティーポットから吹き出す湯気のように塹壕から霧が舞い上がり、無人地帯《ノーマンズ・ランド》に集まった。
それは人型の姿になり、白いドレスをまとった女の姿になった。
膝まである長い髪は魔女のように真っ黒だ。
ピンナップガールのポストカードもかくやという美女だった。
全身返り血で真っ赤の女は、生きた兵士を一人、手に引きずっていた。
女は駆け寄ってきたガキを逆の手で抱き上げ、愛しげに額にキスを浴びせた。
ガキは俺のほうを指差し、女に何か囁いている。
俺にはやはり唸り声にしか聞こえなかったが、女は理解できるらしかった。
女はこちらを見ると、兵士を引きずって歩いてきた。そのドレスは輪郭が朧で、一部霧になっていた。
引きずっている兵士はロダリックだった。一足先にここへたどり着いていたのだ。
ロダリックは悪魔でも見たように目を見開き、口をぱくぱくさせていた。
女は傲然と俺を見下ろして言った。
「娘が世話になったそうだな。礼を言うぞ」
俺はまばたきすることも忘れたまま女を見上げていた。
(無人地帯《ノーマンズ・ランド》の吸血鬼……!)
そう言おうとしたが、咳き込んだだけだった。
「血霧《ちぎり》家のカーミラ。本来なら下賎な者に名乗ることはないのだぞ。だが貴様は娘を助けてくれたからな。私は礼儀を知っている」
女は娘にまたキスをし、驚くほど優しい声で囁いた。
「おお、悪い子め。勝手にほっつき歩いたりして! 心配したぞ」
「あう」
それから女はロダリックを放り出し、手についた血を真っ赤な舌で舐め上げた。
舌なめずりし、女は目を細めて俺に言った。
「まったく戦争とはありがたいものよな。食事に少しも困らぬ。子を生んで育てられるほど満ち足りておるのは何百年ぶりやら」
俺はロダリックを指差して「ロダリックをどうするつもりだ」と言おうとしたが、やはり声にはならなかった。
もっとも、向こうはその意味を察したようだ。
「これは娘の食事よ。持ち帰る」
「……!」
「ほう、気に入らぬか。では私と戦うか?」
女は微笑んだ。その目は虫でも嘲笑うかのようだった。
銃はドイツ軍の塹壕に落ちたときに失くしていた。武器は懐に入れたナイフだけだ。俺はそれに手をやった。
(戦え! こいつはイギリス軍の仲間を殺した! ロダリックも殺そうとしてる! ロダリックは俺の親父も同然だったろ!)
俺は自分を必死に奮い立たせた。
(立ち上がれ! 戦え! 何してるんだ、アルヴィン! 俺は……ヒーローだろ……)
だが手は動かなかった。
俺の体は芯まで恐怖に凍え、完全に震え上がっていた。さっきこの女がイギリス軍を殺戮していた光景が眼を離れなかった。
この女は人知を超えた存在だ。本当の、本物の怪物だ。
俺は猫に睨まれたネズミのように何も出来なかった。
他のヤツと同じように恐怖に震え、泣いていた。
死にたくなかった。ヒーローになりたいなんて思いは、吹き荒れる恐怖の前ではロウソクの火のように消し飛んでいた。
「いいんだ、マクファーソン」
ロダリックが微笑み、優しく言った。
「ヒーローになんかなるな。お前はお前でいいんだ」
「あああ……!」
俺が嗚咽を上げると、女はみじめな生き物を見るように笑い声を上げた。
「アハハハ……!」
女は銀色の霧を引き連れてロダリックを引きずり悠々と歩み去った。
ガキがスキップしながらその後をついていった。
* * *
一九一八年十一月十一日、連合軍とドイツ軍は停戦協定を結び、戦争が終わった。
アルヴィン・マクファーソンは傷が原因で利き腕に障害が残り、傷痍退役して運良く生き延びた。
その後マクファーソンはアメリカに渡り、九十九歳で生涯を終えた。
晩年は痴呆を患い、誰彼なく「あんたの言う通りでしたよ、曹長」と話しかけていたという。
(無人地帯《ノーマンズ・ランド》の吸血鬼 おわり)
(時代考証・解説 小膳兄)
解説
*オールド・ラング・サイン……スコットランド民謡。「蛍の光」の元になった歌。イギリス軍の兵士は行軍のときなどに歌っていた。
*キャベツ野郎《クラウト》……ドイツ人の蔑称。ザウアークラウトを好んで食べることからついたらしい。
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