【戦争&吸血鬼小説】無人地帯の吸血鬼(1/2)
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前書き
1917年、第一次大戦中のヨーロッパ。
ベルギー南部からフランス北東部の一帯では、イギリス・フランス連合軍とドイツ軍が対峙していた。
両軍ともに何百キロにも渡る塹壕を築いて自陣に立て篭もり、戦況はこう着状態が続いていた。
1/2
数日以内にドイツ軍が一斉攻撃に打って出るという情報があった。
向こうの捕虜が吐いたそうだ。
そこで俺たちイギリス軍は、ドイツ軍の準備が整う前に先んじて攻撃を仕掛けることになった。今日の十二時に敵陣へ突撃をかける。
「無人地帯《ノーマンズ・ランド》の吸血鬼。知ってるか?」
ロダリック曹長がヒゲ剃りを研ぎながら言った。
俺はヒゲを剃りながら答えた。
「みんなが噂してるヤツですか」
「ああ。夜になると戦場に現れて、まだ息がある兵士の心臓をえぐり出して血をすするんだとさ。そいつは銀色の霧とともにやってくるそうだ……どうだ、怖いだろ」
おどけて言うロダリックに、俺は笑いを漏らした。
「ハハハ。ガキのころなら寝小便してましたよ。でも今は偵察機のほうが怖えや(*)」
俺の隣にいた兵士が言った。
「ヘッ! 違いねえ」
バカ話をしながらも兵士たちは緊張していた。
これまではたまたま運良く弾が当たらなかっただけで、今日こそはその悪運が尽きる日かも知れない。
今日は俺が戦場に来てちょうど百日目の朝だ。どんよりと曇った日だった。
兵士たちは塹壕の壁に鏡を置き、朝の身だしなみを整えているところだった。
俺たちはずっとこの忌々しい塹壕の中に篭っている。
深さ二メートル、幅一.五メートルほどで、壁を板と土嚢、波状板で補強されただけの溝だ。
地面はいつもぬかるんでいて、小便の臭いがした。
ふと、ロダリックが俺に言った。
「ところでマクファーソン。お前、志願兵だったな? 何だって自分から望んでこんなクソ溜めに来た」
「女王陛下と国のためですよ」
「本当は手柄を上げてヒーローになりたいんだろう。違うか」
図星を突かれて情けない笑いを漏らす俺に、ロダリックはニヤリとした。
「やっぱりそうか」
「ハハハ……俺ァ十五んときに家を飛び出して、それからはずっと町のチンピラですよ。この戦争で手柄でも上げねえと、故郷に帰っても居場所がないんです」
「前にもそんなことを言っていたな。故郷の連中を見返したいのか?」
「まあ、そういうことです。胸に勲章ぶら下げて帰るんです」
ロダリックは呆れた顔をした。
「ヒーローになりたがるな。お前はお前だ」
俺はそれに多少ムカついて言い返した。
「曹長、あんたには感謝してますよ。俺みたいな元チンピラにも良くしてくれたし。でも説教を聞く気はありませんよ」
ロダリックは笑った。
「若いヤツらはおっさんの話を聞かねえなあ」
* * *
「マクファーソン」
誰かが小声で俺の名を呼んでいる。
俺の目の前にあるのは、インクをぶちまけたように真っ黒の夜空だ。
夜が静かに泣くように霧雨が降っていた。
「マクファーソン上等兵!」
俺はやっと正気に戻った。そして自分が半ば土砂に埋もれていることに気付いた。
俺は声の主のほうを見た。
「え?」
「生きていたか」
ほっとしたように言ったのは、隣でうつ伏せになっているイギリス兵だった。
俺はしばらく息をしながら、ぼんやりとその男を見ていた。
そしてやっとのことで、彼がロダリック曹長であることがわかった。
俺たちは二人とも泥まみれで戦場の土に埋もれていた。どうやらここは穴ぼこの底のようだ。
ロダリックは俺に手を伸ばした。
「体は動くか」
俺は土砂から這い出すと、全身に触れてみた。奇跡的にもケガらしいケガはなかった。
「ええと……どうやら五体満足です」
「今が何年の何月何日がわかるか」
「一九一七年四月十二日。時間は……ああ、クソッ。腕時計がねえ! どっか行っちまった」
ロダリックがあたりを見回しながら言った。
「俺もさっき眼を覚ました。俺たちは同じ砲弾で吹っ飛んだみたいだな。一緒に大根《パースニップ》みたいに地面に埋もれてたんだ。で、俺のほうが少し先に眼を覚ましたというわけだ」
俺はなぜ自分がここにいるのか、やっとわかった。
正午に戦闘が始まった。
イギリス軍の砲撃支援が始まり、俺たち歩兵は舞い上がった煙幕の中を突っ走って行った。
ドイツ側は地獄の行進曲みたいに機関銃を連射し、同じく迫撃砲で迎え撃った。
俺たちイギリス軍が築いた塹壕からドイツ軍の塹壕まではわずか百メートル。この百メートルのあいだで、いったいどれだけ敵味方が死んだやら……
俺の近くに迫撃砲が着弾したところまでは覚えている。
そのあとのことは覚えていないが、どうやら吹っ飛ばされた俺は以前迫撃砲が落ちて出来た穴ぼこに落ちて、今まで気絶していたようだ。
俺たちが生きているのはまったく奇跡としか言いようがない。
俺はロダリックに言った。
「曹長、ほかの兵士は?」
「俺たちだけのようだ」
「戦況はどうなったんですか?」
「わからん。こっちが勝ったのか、負けたのか。で、ここからが問題だぞ、マクファーソン。我がイギリス軍が敗走して、今ごろ陣地をドイツ軍に占拠されていたとしたらだ。俺たちはどこへ行けばいいんだ?」
俺は息を飲んだ。
「ドイツ軍の一斉攻撃は三日後でしょ?」
「俺たちの攻撃を退けた弾みで予定を繰上げたかも知れんぞ」
「俺たちが勝ったかも知れないじゃないですか」
ロダリックは考え込み、腹を決めた様子で言った。
「まあ、グダグダ言ってても始まらん。とにかく自軍の塹壕まで戻って様子を見よう。銃はあるか?」
「どっか行っちまいました。まあ、途中で適当なのを拾いますよ。ああ、それから曹長。生きてまた会えて嬉しいです」
「俺もだよ、マクファーソン」
俺たちは赤ん坊のように這って夜の荒野へ進み始めた。
地面は氷上のように冷たく、夜気は腐肉と火薬の臭いがした。
この無人地帯《ノーマンズ・ランド》は、イギリス軍とドイツ軍のあいだに広がる戦場だ。
草も木もないむき出しの地面は、度重なる砲撃で穴ぼこだらけだ。
そこにあるのは壊れた運搬車、崩れて潰れた塹壕、不発弾、コイル状の鉄条網、馬の死体、犬の死体、そして兵士の死体。
俺はそれほど神を信じちゃいないが、地獄があったらこんな光景だろう。
いくらか行くと、やがて塹壕から漏れるわずかな灯りが見えてきた。
今朝までは俺たちイギリス軍の陣地だったが、今もそうかはわからない。
先を行くロダリックが止まり、左側を指差した。
そちらには迫撃砲が何度も落ちて広がった深い穴ぼこがあった。身を隠して様子をうかがうのにちょうど良さそうだ。
「あそこに入るぞ」
「了解。気をつけてくださいよ、軍曹」
「吸血鬼がいるってか? ハハ」
ロダリックはそろそろと穴ぼこに入って行った。
こういったくぼみはドイツ軍がバラまいた塩素ガスの溜まりになっていることがある。
塩素ガスは空気より重いので、洗面器の中の水みたいに低いところに留まるのだ。
ロダリックは奥のほうへ入り、あの独特の刺激臭がないことを確かめると、俺に手招きをした。
俺たちは穴ぼこから少し顔を出して様子をうかがった。
「東側に塹壕の切れ目があっただろ……ああ、あれだ」
ロダリックが塹壕の一部を指差した。
俺がそこに目を凝らしていると、ほんの一瞬、兵士の姿が通りかかるのが見えた。そいつはドイツ軍の鉄兜を被っていた。
それを見たロダリックは悪態をついた。
「クソッ!」
「参りましたね、こりゃあ」
俺は呻いた。
俺たちはドイツ軍というサメだらけの生簀に浮かぶユニオンジャックにしがみついて、かろうじて浮かんでいる状態というわけだ。
夜が明ければ必ずヤツらに見つかるだろう。
さあ、どうする? 進んでも敵軍、戻っても敵軍だ。
ロダリックが苦渋の表情で言った。
「両手を上げて出て行くという手もある」
「冗談じゃないですよ!」
ロダリックがあわてて俺の口を塞いだ。
「大声を出すな、バカ!」
「ムグッ……すみません。塹壕沿いにずっと北に行きましょう。そっちにC中隊の陣地があったでしょう」
「匍匐であそこまで? 夜のうちにたどり着けるものか」
「でも投降なんて! そんなマネ、俺ァ死んでもしませんよ」
「言っただろ、マクファーソン! ヒーローになろうとするな。お前はお前だ。ただのケツの青い若造だ」
俺が言い返そうとしたそのとき。
どさっと何かが落ちる音がすぐ近くでした。
俺たちは泡を食ってそちらに銃を向けた。途中で拾った銃だ。
月明かりに目を凝らすと、俺たちがいる穴ぼこに誰かが落ちてきたようだった。
その誰かは小さく唸り声を上げながら立ち上がり、口の中の土砂を吐き出した。
俺とロダリックは呆気に取られた。
それは小さな女の子だったのだ。十才くらいだろうか、ぼさぼさに伸びた銀色の髪をしている。
着ている服は兵士の軍服を切って縫い合わせ、サイズを合わせたものらしい。
女の子は大きな眼を見開いてこちらを見た。指をしゃぶっている。
「あー」
女の子は唸った。
「あー、うー」
ロダリックが銃を降ろし、それから固まっている俺の銃も下ろさせた。
そして女の子に言った。
「お……お前は? どこから来た」
「あー?」
女の子は指をしゃぶりながら当たりを見回した。
俺たちを恐れている様子もなく、呆けたような顔をしていた。知恵遅れだろうか?
俺はロダリックに囁いた。
「近くの村のガキじゃないですか。兵士の死体から持ち物を盗みに来たんでしょう」
ロダリックは眉を寄せた。
「ガキが一人でか?」
「親とはぐれたとか……」
「吸血鬼じゃないならほっとけ。マクファーソン、仕方ない、お前に付き合ってやる。C中隊の陣地を目指そう」
「このガキはどうするんですか?」
「ここまで自分で来たんだ、帰り道も知ってるだろ。俺たちと一緒にいるほうがむしろ危険だろう」
俺はいまいち納得できなかった。こんな小さな子どもを夜の無人地帯《ノーマンズランド》に置いて行けと言うのか?
ロダリックが匍匐前進で塹壕を出ると、俺も渋々とあとを追った。
穴ぼこを出てから振り返ると、あの子どもの姿が見えた。
俺は目を疑った。あろうことか、その子どもは元イギリス軍・現ドイツ軍の塹壕に向かっていた。跳ねるようにスキップしている。
夜の戦場で動くものがあれば銃手はそれが何だろうが確認する前に撃つ。イギリス兵だってそうする。
俺は跳ねるように立ち上がった。
「マクファーソン!? 戻れ!」
ロダリックの小声の叫びを置き去りにし、俺は走り出した。子どもの方へ。
とっさに子どもを抱いて地面に伏せようとしたが、すでに塹壕が目前に迫っていた。
そのせいで俺たちは抱き合ったまま塹壕内へと滑り落ちてしまった。
俺たちは塹壕内のぬかるみの中にぐちゃっと音を立てて落ちた。
俺はガキを抱えたままあたりを見回した。
何ヶ月もいた場所だから、もちろん見覚えがあった。少し広くなっている場所で、運搬車にイギリス兵の死体が積み上げられている。
俺と一緒にこの陣地を守っていたB中隊の兵士たちだ。
広場の左右には塹壕の通路が延び、電灯の明かりがぽつぽつと続いている。
幸運にもドイツ兵の姿は見えなかったが、緩いカーブを描いた右側の通路のすぐ向こうで人の話し声がした。
その話し声はグチャリグリャリというとぬかるみを歩く音とともに、ゆっくりとこちらに向かってくる。
俺は顔から血の気が引いて行くのを感じた。
(マズい! マズすぎる!)
「あー」
ガキはのん気に指をしゃぶり、あたりをきょろきょろと見回している。
ガキと一緒に塹壕から這い上がっている暇はない。ケツを撃たれてしまう。
俺は急いで運搬車に乗り、ガキを抱き締めたままそこに横になった。
今朝まで一緒にヒゲを剃っていた戦友たちは氷のように冷たく、死臭を放っていた。
「あー」
「しっ! 静かに! じっとしてろ、死体ごっこだ」
俺はガキの口を手で塞いだ。
声が近付いてくる。
声色からして三人ほどいるようだが、俺はドイツ語がわからないし、今は死体役に徹しているので顔を上げて見ることもできない。
ひたすら息を潜めてその場でじっとしていた。
ドイツ兵たちは死体運搬車の前で立ち止まり、何事か話し合っている。
それから足音がこちらに近付いてきた。
何かごそごそとしている感触がある。ドイツ兵が死体を調べているようだ。
その手は死体から死体へと移り変わり、やがて俺の体に触れた。
俺は息を止めていた。キンタマが縮み上がっていた。
解説
*英軍兵士たちはドイツ軍の偵察機を非常に恐れていた。まもなくドイツ空軍の空襲が始まる合図だったからだ。
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