#33 なぜ「走る」ということに胸が熱くなるのかというはなし
秋の風が気持ちよくなってくる季節になった。箱根駅伝の予選会がおこなわれ、季節はいよいよ「マラソンシーズン」になる。
私は子どものころ、足が速い方でも遅い方でもなかった。運動神経が良いわけでも悪いわけでもなかった。特段できるわけでもないけど、当たり障りなくできるので小・中・高とスポーツに関することは「副キャプテン」くらいの位置にいた。走ることも同様で、普通。メダルや賞状を狙える位置にはいないけど、劣等感をいだくほど遅くもない。
そんな私の娘なのに、小3長女は走るのが速い。
旦那も私と同じような当たり障りないレベルなので、どこから遺伝したのかはわからない。
いつも颯爽と走っている彼女の姿を見ると、不意に泣きそうになる。
長距離でも短距離でもそう。胸のあたりがぎゅっと締め付けられる。この感情は「走る」ことにしか湧き上がらない感情だということに最近気付いた。
水泳やバドミントンをしている姿を見ても、胸を締め付けられるという気持ちにはほどんどならない。スイミングスクールではじめて息継ぎをしながら25m泳ぎ切ったときも、進級テストに合格しても、ナイスショットを決めても、うん、よくがんばった、すごいなー、さすがだなー、とは思うんだけど、泣きそうにはならない。
でも、マラソンレースで走っているのを見ると泣きたくなる。運動会の50m走を見て胸が苦しくなる。自然と涙がこみあげてくる。なんなら、ただの自主練で1人で家の周りを走っているのを見ても。
なぜだろう。
自分の娘だから、ではない。
箱根駅伝を見ていても泣きたくなる。
インターハイ決勝の映像を見ていても泣きたくなる。
そういや、ラグビーを見ていて泣きたくなったことがあったなと思い返したら、体の大きな選手が相手チームの多くの選手に追いかけられる中で、それを振り切ってコートの真ん中くらいから独走してゴール(トライ?)を決めたシーンだった。
なぜ、こんなにも「走ること」は私を魅了するのだろうか。
陸上経験者でもなんでもない私の心をえぐるのか。
速く走れない、からこそ魅了するのかもしれない。
体育の時間や学校のマラソン大会のレベルでしかないけれど、それでも、速く走れない悔しさや絶望を知っているから。速く走ろう、前のあの子に追いつこうと頭では思っていても、体がそうはさせない。足が前に出ないし、息が苦しくなるし、体はどんどん重くなるし、頭で描いているようにスピードが出せない。どんどん前との距離が開いていくけれど、どうしようもできない。後ろから迫ってくる足音。前に行かなきゃ、前に、、と思うけれどできない。走っている時にずっと感じていたもどかしさや苦悩。
同じ人間とは思えないような走りをする選手に憧れ、そこについていけず遅れをとっていく選手に自分を重ねる。
「相手が良いボールを打ってきたから負けてしまった」とか「オフェンスが(ディフェンスが)良くなかったから負けてしまった」とか「試合球との相性がよくなかった」とか、勝ち負けの理由が相手やチームメイトや道具に依存せず、走ることはただただ自分との戦いだからというのもあるかもしれない。
速く走れるように地道に日々トレーニングを重ね、レース中も自分と向き合い、苦しくても自分に打ち勝つ精神力の強さに惹かれるのかもしれない。
今年の運動会も長女は80m走の最終走者に選ばれた。一緒に走るのはスポーツ男子ばかりで女子は一人。走り終わった女子がみな「男子に負けるなー!がんばーれー!」とゴール地点から大きな声援をおくってくれる。
色白で華奢な女の子が、真っ黒に日焼けしたひと周り大きな体の男子たちと肩を並べてスタート地点に立っている姿も胸を締め付ける。
夜な夜な一緒にトレーニングしている。その努力を知っているからまた胸が締め付けられる。勝っても、負けてもいい。ただ、ただ、まっすぐに前を向いて、颯爽と走り抜いて欲しい。
きっと、また、私は運動会の日に泣いてしまうだろう。