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どうする、ニッポン

2.1.4 タテ社会の継承-明治から昭和へ

薩摩藩と長州藩が率いた明治政府は欧米の先進国をお手本として近代化を目指しました。政府は中央集権を確立するために、廃藩置県を断行して大名の権限を取り上げました。「廃藩置県」は独自の自治権を持っていた約300の藩(国)から主権を取り上げたのです。日本を一つにまとめて、中央集権の確立を目指したという意味において非常に大きな制度改革でした。政府が基本とした中央集権の運営手法は、幕藩時代と同じ“力”による運営でした。その結果、速やかに近代化を成し遂げて、統制の取れた国を作ることができたのです。私たちは幕末に欧米先進諸国の文明と文化の高さを見せつけられていましたから、明治政府は近代化して日本の位置を高めようとしました。維新を成し遂げた政府は統治権力を持つと、“一流国”を目指して「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに掲げました。政府は“一流国”であることを示すために、近代化を急いで先進諸国から最新式の制度や機械などを取り入れました。

“一流国”を目指すためには国を近代化して「モノつくり」のハード技術の習得もさることながら、社会を運営するソフト技術の習得も必要な条件です。そのため政府の幹部は大挙して欧米の視察にも出かけました。しかし、外国人を雇い習ったのは機械で作る製品の製造技術で、組織の運営方法は封建時代からのやり方を踏襲したのです。社会の運営は幕府や藩の“力”による運営の原則をそのままにして、西洋の進んだ「モノつくり」の技術のみを取り入れて近代化を図りました。「モノつくり」の近代化により鉄道、道路、発電、水道、郵便などのインフラが整備されました。十分な国家予算がない中で独立国として先進諸国と対等に渡り合うためには、一流の軍事力と近代産業を持つことが最重要課題だったのです。日本は西洋の植民地にはなりませんでしたから、明治政府の「和魂洋才」政策は成功したといえます。

内を治めながら外へも向かった20年は、先進国の製造技術(ハードの技術)を導入して発展を見ましたが、ウチを治める手法やソトと交渉する方法(ソフトの技術)は徳川時代とあまり変わらなかったのです。明治政府の運営手法は幕府の統治手法と同じ絶対的な上下関係と官尊民卑にありました。政府は運営面では基本的に従来の統治手法を守って、先進諸国の運営手法は日本型に編集し直して導入しました。朱子派の儒教主義に基づいた「民はこれを由らしむべく、これを知らしむべからず」を運営の基本としたのです。“一流国”になるための政府組織の運営方法は、先進国の制度を学んで同じような組織構造のウツワを作ることでした。先進国の手法をそのまま移入したわけではありません。江戸時代から続く国を統治する手法は、当時の先進国の手法とは全く違っていたからです。明治政府の組織運営は先進国の制度を参考にしましたが、旧来のやり方を踏襲することにしたのです。幕藩体制時代の統治手法に先進諸国の手法を混ぜた日本型の運営手法を作り上げました。

明治維新を成し遂げた人たちは、新しい国を治めるうえでの具体的な統治の姿を詳細に描いていたわけではありませんでした。お手本のない中で統治の形を模索しながら新しい国を立ち上げて“一流国”を目指したのです。政府を運営する方法は、必要に応じてその都度新しい組織を立ち上げる形態をとりました。業務執行でも確実な手法を持ち合わせているわけではありませんでしたから、手探りで進めるしかなかったのです。国を運営するには一人でも多くの人に力を合わせて働いてもらう必要がありました。多くの人がみんなで一緒になって国づくりに参加する社会を作りましたから、明治政府の組織運営は成功したといえます。手探りではありましたが、日本には長い武士の時代に培われた「武士道」を精神的な背景とする幕藩時代の統治手法という完成形があったのです。維新を成し遂げた薩摩藩と長州藩は土佐藩と肥前藩を仲間に引き入れて、徳川幕府の統治手法を踏襲した形で明治政府を立ち上げました。新しい日本を治める手法として技術的には幕府や藩の統治手法をそのまま踏襲したのです。私たちには精神的なバックボーンとして「武士道」がありましたから明治政府の“力”による運営は、比較的すんなりと庶民の受け入れるところとなりました。ここに「タテ社会」の継承がなされたのです。

明治時代の「タテ社会」は社会のカタチが変わっても、社会の底流となって私たちの文化の一部として続きます。社会の大きな変化は太平洋戦争へと突き進みました。大日本帝国の戦争へ向けての政策執行は希望的観測に基づいた計画に頼っていました。政策方針は目標達成に向けたグランドデザインが基本になっています。しかし、グランドデザインは思い込みと仮定の下での単線的で楽観的な戦術中心の粗い戦略でした。計画は国際情勢を包括していますが、目標達成への複数の道筋は具体的に検討されていません。政策が計画どおりに行かなかったときの代替案(Plan B)はありませんし、予備案(Plan C)があるはずもありません。ウチにおける人間関係を重視して、組織運営の合理性は軽視されていました。しかし、私たちにとってよかったことは、戦争に負けた後も「タテ社会」がしっかりと継承されてびくともしなかったことです。私たちの文化を支えてきた「タテ社会」のお陰で、戦後の復興が順調に進んだことは第1章で述べました。しかし、社会が変わったにもかかわらず「タテ社会」の文化は、しっかりと継承されすぎて進化できなかったことは“後れ”を招いた原因にもなってきました。

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