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どうする、ニッポン

1.1.2 所得倍増計画

池田勇人首相(1960年~1964年)は“10年で国民の生活水準を西欧の先進国並みに引き上げる”という目標を立てて「国民所得倍増計画」を閣議決定しました。計画の内容は、国内と海外を問わず国民が生産するモノやサービスの付加価値の合計額である国民総生産(GNP)の26兆円への倍増です。単純に国民所得を倍増する計画ではありませんが、ネーミングが良かったので国民の話題となりました。

余談ですが、池田首相は大臣時代に“貧乏人は麦を食え”とか“私は嘘は申しません”とか失言とも取られかねない発言を繰り返していましたので「国民所得倍増計画」は本当に収入が倍になる政策だと思った国民も少なくありませんでした。

日本が先進国並みに成長するためには、産業の近代化と工業化で輸出を増やすことが必要で、製造業の発展は不可欠でした。科学技術分野の人材を育てることと、製造業を発展させて輸出を増やすことは喫緊の課題でした。産業界は大量に「モノつくり」に従事する人が必要になっていたのです。資源の少ない日本は、人を育てることは欠かせませんから、池田首相は「人つくり」を掲げて日本を引き上げようとしました。「人つくり」の方針に従って、義務教育課程の学校ではかつてにも増して“みんなで一緒に”の教育を強く行って、均一で勤勉な人たちを社会に大量に供給しました。毎年3月になると、多くの義務教育を終えた人が就職のために、地方から大都市へ移動しました。大勢の若者たちの移動は“集団就職”といわれて春の風物詩となりました。“集団就職”によって、若年層の都市部への集中と地方の高齢化が始まったのです。また、産業界は実践的な技術者を必要としていたので、要請に応じられるように工学系の技術者の養成を目的に1962年に5年制の国立高等工業専門学校が開校されました。

朝鮮戦争の特需に続く「国民所得倍増計画」に基づいた政策の実行と昭和世代の猛烈な働きによって、日本は高度経済成長期を迎えました。「国民所得倍増計画」に謳われた産業の発展と産業を支える「人つくり」がうまくかみ合って機能したからです。日本は戦争で多くの有能な人を失いましたし、戦後に公職を追放された方も少なくありませんでした。少ない人材の中で、新しく比較的に若い人が責任ある立場を任されるようになりました。彼らは“責任感”にあふれ組織に忠誠を誓って働きました。彼らの目標は、国際的に認められることと同業者のなかで一番になることでした。先ほどのWBCのように、優勝を目指して一所懸命働きました。2番ではダメなのです。日本を挙げて「国民所得倍増計画」を推進した結果、GNPは1964年の東京オリンピック開催に合わせたかのように約4年で倍増しました。実質国民所得は約7年後の1967年に倍増しました。高度経済成長期には毎年10%を越える成長を成し遂げて、多くの国民が、“自分たちの家庭は中流だ”と思うようになりました。私たちは少なくとも先進諸国に追いつきつつあることを実感したのです。

一人当たりの国民所得は倍増しましたが、先進国と比べると決して多くありませんでした。私たちの年間の労働時間数は、とても先進国並みと言えるものではなかったのです。まだまだ貧しかったというのが実態で、引き続き私たちは“追いつき追い越せ”と毎日の仕事に精励努力しました。電器産業が次々と世に新製品を送り出して、何度も“世界初”とか“世界最高”、“世界最小”を謳ったのもこのころです。高度経済成長期の1964年にはアジア初となる第18回東京オリンピックを開催し、1970年には大阪で「人類の進歩と調和」をテーマにした万国博覧会を開催しました。日本は二つの世界的なイベントの開催に成功して、先進国への仲間入り資格が十分にあることを世界に示しました。

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