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訪れた国

Episode 5 – Taiwan 1

 

 1978年の旧正月の休暇に高雄から日月潭を経て台北へ旅行したことがあります。次に訪れたのは1991年(民国80年)で1年半足らずを台北で暮らしました。台北は日本のどこかの県庁所在地と言ってもいいほどに日本を感じさせる街です。市内に日本の街づくりの面影が多く残っています。日本式瓦屋根の住宅がありますし、パチンコ屋もあり、食堂の店先では茶碗蒸しが売られています。三重、松山、板橋など日本と同じ地名を持つ所もたくさんあります。昭和の頃、日本のどこにでもあった定食屋のような店が、あちらこちらに日本料理屋として営業しています。中を覗くと年配のご夫婦が定食を食べながら日本語で話をされているのです。

 17世紀にオランダが植民してFormosa Island(麗しの島)と呼んでいた頃、台湾はマレー系とミクロネシア系の部族が島中に分かれて暮らしていました。その後、中国人がきて鄭成功(父は福建省の中国人で母は平戸の日本人)が東寧王国を立てますが、清朝に敗れ併合されて清朝の一部となりました。1895年に日清戦争の結果、清朝から割譲されて日本の台湾総督府が統治することになりました。日本が統治するようになると、中国人以外の7部族をまとめて高砂族と呼ぶようになりました。戦後に高砂族は9部族に分類されていたようですが、現在は台湾政府によって16民族が原住民として認定されているそうです。

 昔むかし、一部の高砂族に部落へ近づくよそ者の首を刈る習慣(出草と呼ばれた)がありました。ある時からお坊さんがたびたび部落を訪れて、悪い風習を改めるように何度も諭しましたが、彼らはやめようとしませんでした。そんなある日、お坊さんは「何日の何時頃に部落の近くを通る者があるから、その者の首は刈ってもよい」と伝えて去っていきました。言われた時間に部落へ近づいてきた者の首を取ってみると、それはあのお坊さまでした。以来、その部族は首狩り習慣をやめたそうです。

 原始的な生活が残る台湾の社会を日本が一気に近代化させたので、感謝する気持ちが台湾の人には根強くあるように感じられました。一時帰国するときのお土産にオロナイン軟膏を頼まれたことがありました。日本製で輸出仕様のものは売っていますが、同じものなら日本国内にある日本仕様の方がいいと信じているそうです。仕事の進め方でも日本型が随所に見られました。「昔(1,000年以上前)、中国は日本にたくさんのことを教えてきましたから(遣隋使や遣唐使のこと)、今度は日本が教える番ですよね」という話は何度も聞きました。

しかし、最近の台湾は多くの分野で日本をしのいでいます。家電製品に限らず半導体の分野でも日本に投資するようになっています。たとえば、台湾の一人当たりGDPはまだ日本より下にいますが、一人当たりGDPの購買力平価では台湾は(19位)で日本(31位)よりはるか上にいます。ちなみに、同じ中国人が主体の香港、マカオ、シンガポールは10位以内です。コロナ対策でも台湾方式が話題になりました。今度はまた日本が台湾や他の先進国から教えてもらう時代が来たのではないでしょうか。今は、日本の遅れている現状を認識して実力を謙虚に見つめ、遅れを取り戻す道を真摯に考えるときかもしれません。

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