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白色の小学生

その子はコーラルピンクのランドセルを背負っていた。

授業は普通学級で受ける科目もあれば、特別学級で受ける科目もあり、大抵の読み書き計算は低学年用のドリルで習っていた。

家の方向が偶然一緒だったのでときどき喋りながら帰っていた。



優しさと正義感と

その子は身長が小さくて目が大きい、まっすぐでよく通る声だった。お母さんに結んでもらったのか、かわいい髪ゴムをつけて学校に来ていた。普通学級の子はあまり派手なのをつけておらず、それは校則のせいか風潮だったのか理由は忘れてしまったが、とりあえず私もつけないようにしていた。ただその子がつけているのを見ても羨ましくはならず、その子だからいいんだろうな〜と捉えていた。

「その子だから」をどう取るかは、一人一人はっきり分かれるもので、私の周りは自分も含め「・・・特に何も思わない」か「不便なことが多いんだろうな」だった。今になって気づくことがある。「こそ」と取る生徒や大人が誰もいなかったこと、私はどこかでエゴを持っていたこと。
その子に対してあからさまに嫌がる誰かを見ると、なんだか自分がそうされたような気分になり、あぁならないようにしようと心底思った。思ったのはいいのだけど、それが強くてあり余るくらい大きくなり、おかげで無駄な大人っぽさを持ってしまった。それを"エゴ"と言うのだと思う。



一面と多様性

バレンタインの季節は毎年、チョコレートを友達と交換する。もちろん私はその子とも交換していたし他の友達もはじめのうちはそうだった。
しかし、5〜6年生にかけて不可解なことが立て続けに起きた。今までその子に優しかった友達が突然、こぞって避けるようになったのだ。理由を聞いても大して教えてはくれず、たまに聞いたのは「あの子、性格悪いよ」「あいつはもういい、知らん」というよくわからない言葉だけだった。

私には信じられなかった。その子が一体何をしたというのだろう。私の目に写っていたのは、不器用だけどいつも一生懸命で明るいところばかり。(そして)そんな無防備な性格が自分自身と重なったせいか、話せばいつも穏やかで爽やかな気分になれた。そういう安心感もあって余計に周りの言葉や態度を信じようとせず、聞かなかったことにしてこれまで通り接した。

しかし、それはその子にとって一面に過ぎなかったのかもしれない。ふと親友が「あの子、ナーちゃん(仮)が思っているような子じゃないよ」と、若干切なそうに言ったのがよみがえる。20代になり働くようになってから、一人の人間がいつ誰の前で、どんな一面を見せるのかありありと分かるようになった。人の愚かさと聡明さは表裏一体で、それが(私)自身においてはどういうところを指すのかってことも知った。



おわり

その子は小学校を卒業して、支援学校の中等部に行ったと聞いた。今どうしているかな…連絡先はもうわからないので思い出すことしかできない。もし会えるのならカフェでゆっくり話がしたい。どんな話をしようか、楽しみになる。(別に)他の面を知ろうってわけじゃない、ただ私はその子と話がしたいんだ。

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