[一語一会 #18] エネルギー切れ
エネルギーの流れに面白さを感じる.
生真面目に考えるのなら,エネルギーが切れるということは,基本的には比喩として使われていることがわかる.なぜなら,本当にエネルギーが切れていたらその人は死んでいることに他ならないからだ.
実際には,そうやって精神的または肉体的に疲労困憊していても,様々な臓器は動いているわけだし,細胞レベルで見るとアデノシン三リン酸(ATP)の高エネルギーリン酸結合が分解されて,化学的なエネルギーがとりだされて,生きているわけだ(ポール・ナースの最近の著書「生命とは何か」を読んで復習をしているところである).私の表現で言えば,エネルギーの流れ,というわけだ.
こういうことだから,自動車その他がエネルギーで動き,それがなくなると活力を失って動かなくなるように,人間やその他の動物について,活力がなくなったらエネルギー切れと呼ぶのだろう.我々の認知の世界にあふれている比喩,特にメタファーは面白いものである.
とりあえず比喩の用法は認めるとして,私もたまに,エネルギー切れになる.大体は気分が沈んでいるときだとは思うのだが,何もする気が起こらなくなって,それで無駄に時間を過ごしてしまい,そのこと,つまり有意義な時間を作れなかったことに関して辛くなって,自分を責め,さらに落ち込む(そしてさらに気力を失う)ということがある.
もしくは,身体が動かなくなるくらいの物理的なエネルギー切れというのもあるのかもしれないが,個人的には基本的に現代において人々がエネルギー切れになるのはおそらく精神的な面が大きいのだろうと予想している.
というのも,今の世界では物質的に満たされている人がかなりの割合を占めているし,一方で並行して,自分のやりたいことをやっていい,という状況の人も増えているだろうから,物質的に満たされることと,「自由」に対峙したときの無力感のギャップが,ときに人をエネルギー切れに追い込む面があるのだと思う(特にいわゆる先進国と呼ばれる国々においては).
やりたいこと,ないし目標を自発的に設定することは,少なくとも私には,かなり難しい.それこそ,思考をするということには,私の頭の各種神経細胞において,かなりのATPが必要なんだろうと思う.
だが,思考を止めてしまえば,エネルギー切れという言い訳で動かなくなってしまえば,そこで負けだ.もちろん休むことや,効率の良い方法を探して取り組んでいくこと,たまに瞬間的なエネルギー切れで落ち込んでみることなども時と場合によって重要であることは承知している.それでも,長い目で見て情熱を絶やさず,その認識を思考へ,思考を行動へと移して,前に進めていく必要があるし,そうしていきたいと思うのだ.
エネルギー切れではエネルギーの流れは止まっている.
生命が生きている間の物理的なエネルギーのように,精神的にもその流れを絶やさないことが,人間を生きるうえで肝になる,ということを肝に銘じて観照を続けていこうと思っている.