薬剤師が「寄り添う」ということ。
こんばんは。
最近、わしよりもかなり年上の患者さんらから、「人生相談」を受けることが多くなった。
連れ合いを亡くしたばかりの奥さん、60歳超えて離婚してしまい、手術の同意書を書いてもらう人がいなくなってしまった患者さん、みな涙を浮かべて相談に来る。
これらの患者さんと、薬剤師の私は当然に何年も顔を合わせている。
患者さんも、わしが一人薬剤師で忙しいのを知っているので気を使って、手短かに話してくれる。
コロナの衝立を挟んでは聴こえないので、耳元で「離婚しちゃって手術が延期になった」と。
私もどのように声をかけて良いか分からないが、聞いてあげる。患者さんは「信用できる誰かに打ち明ける」ことで少しは心の荷が降りるのだろう。
息子夫婦の仲が悪いとか、夏は暑いから涼しいところに住んでいる娘の所に行くから三ヶ月薬局に来れなくなるとか、会社をやめてしまった、どうしようという大型車の運転手さんとか。
あまりにも「人生相談」が多くて、事務子達は私のことを先生ではなく、「住職」と呼ぶようになってしまった。
本当に人生相談が多い。
これは人生の大先輩たちが、地域の薬剤師である私を選んでくれているのだと、
周りのスタッフも認めてくれている。
ありがたいことだとおもう。
近ごろ、国もどこもかしこも、患者さんに「寄り添うことの出来る薬剤師」像を求めている。
わたしはこの「寄り添う」という言葉が苦手だ。
「寄り添う」というのは時系列的に常に、その人の近くに存在し続けている必要があると思う。
それは家族でもない限り出来ない。
では「心理的に寄り添う」という意味であるのか。
心理的に寄り添うというのは、表面的に安心させる事になるのだろうが、これも漠然としていて薬剤師の果たす役割とは少し違うと思う。
では、どうすれば良いのか?
「寄り添う」のではなく、「支える」のである。
寄り添いには結果がない。
支えることには結果がある。
私の行っていることは、寄り添いではない。
私なりに「支えている」のである。
寄り添うというのは、どの様にでもごまかせる。
相手の話を感じよく時間をかけて聞いてあげるだけでも、相手は寄り添ってくれている、と感じてくれるのだろう。
しかし、一人の薬剤師が、多くの人にその様に寄り添えるのだろうか?無理である。そして、その寄り添いの結果は何なのだろうか?
地域の人が薬をもらうついでに、自分の悩みを打ち明けたり、世間話もしながら、少しでも気持ちを楽にして帰ってもらうとか、そういった事をずっと繰り返す事で、「何かあったら、近くの薬局の薬剤師さんに相談できる」という信頼関係が構築できるのである。
そうなのである。
昔ながらの薬局が、今こそ必要なのである。
地域を支えるのである。
文字通りの地域支援が出来るのは薬局だけだと思う。
いつでも、近くにいる、同じ場所にいる、薬剤師さんに聞いてみよう。相談してみよう、
打ち明けてみよう。
それで良いのである。
ゲットジアンサーズ。