短編 秘伝・怪異殺し
ラーテルって知ってるかい。答えは、あれだよ
くたびれた老年男性は静かに語った。弱々しく掠れた声。長い時間日光に晒され続けた浅黒い肌。畑仕事で鍛えられたであろう無駄のない筋肉が肌と合わさり、樹木のようになった腕。短い白髪。出会った時は密度の高い木の幹のような、全身がとにかく頑丈そうな老人だと思った。
その老人が今、流れてきた枯木の様にすっかり細くなっている。もう長くないかもしれない。
静かに襖が動いて、冷たい風が和室に入る。見た目の印象は中学生くらいの少女がお茶と布巾を持ってきた。少女は無駄のない所作で僕にお茶を出し、軽く会釈すると身体の向きを変える。優しく、丁寧に老人の顔を拭く。この少女は老人の妻を自称している。
温かさと、冷たさと、優しさと、奇妙さがここにはある。僕がこの奇妙な家に居候を始めたのは、大雨の日だった。
一章 大雨の日
平成24年の秋頃。大雨の日の夜。僕は山道を歩いていた。自分が何を考えていたかはあまり思い出したくない。今言葉にするととても陳腐だが、生きるのが嫌になっていた。僕にはパッと死ぬ程の決断力が無くて、気持ちを切り替える程の強さもなかった。心配していたことは2つだけ。
一つ:死に損なって生きながらえることが無いように、確実に死ねる方法を実行したい。
一つ:あわよくば自殺ではなく、事故や事件だと思われたい。僕は可哀想な犠牲者として、静かに消えていきたい。
なんて情けない考えだろう。恥ずかしくなるが、目的地に向かう脚は止まらなかった。今日のために色々考えて、飛び降りが1番良いと結論を出して、リサーチをした。飛び降りの死亡例、生存例を調べ、助からない高さと条件を整理した。ここ一年くらいは野鳥観察を口実に山歩きをして、条件に当てはまる場所を探した。
高さが十分にあって、下は底の浅い川。人がほぼ通らないエリアなので、落下後に発見されて救助される確率も極めて低いだろう。熊や猪も出るらしいので、もしかすると動物がトドメを刺してくれるかもしれない。
どおお……ばどばどばど…ばどばどばど…傘に当たる雨音以外は全く聞こえない。視界も悪い。警報が出るレベルの大雨は好都合だった。山歩き中、足を滑らせて橋から落下してしまったようにも見えるかもしれない。大雨の日に趣味の山歩きをして死んだ馬鹿な大学生、として終わる。そんな期待をしていた。
橋から下を覗く。暗い。手で触れたら色が移りそうな、墨のようにねっとりとした黒が見える。
いざ飛び降りようとしたら身体が竦むとか、脳が拒否するとか、そういう反応があるかもしれない。さぁ、死んでしまうぞ。それで良いのか自分よ。問いかけながら傘を投げ捨て、橋の手摺りの上に立った。脳の奥から自分の声が聞こえた。
『川、寒いかもよ』と
僕は失笑した。死にたくないとか、怖いとか、もっと強い感情の動きはないのか。情けない。死んでしまえ。情けなくてつまらないやつだ。
身体から力が抜けたと同時に、強い横風が吹いた。ふうっ…と身体が軽くなる。落ちた。先ほど覗き込んでいた墨のような闇に向かって落ちている。一瞬だけ「あっ」と声が出たが、まぁあっけないものだ。後押しされたと思えば幸福だ。
漫画の世界だったらヒューーーとオノマトペがついたであろう。長い時間落下しているが、実際に聞こえてくるのは耳が取れそうな風切り音。全身が冷たいが、もう楽になれるんだなという安心感が勝っていた。鋭利で優しい冷たさ、温もりのある痛みだった。
……
……
……
「なんだ、生きてるか」
老人の声
僕は目を覚ました。頭がぐわぐわと揺れて、足元もふわふわと定まらない。記憶が混濁している。あれ、アルバイトは今日だっけ。学校?あれ、家に帰るんだっけ。
がさ、がさ、と山道を進んでいる。景色がおかしい。夢?僕は体を動かしていないのに勝手に進んでいる。
「お前さんが歩けないのはいいんだけどよ。せめて腕に捕まってくれねぇか。落っことしそうでよ」
まず浮遊感の正体が分かった。僕は老人に片手で担がれ山道を進んでいる。声の主は頑丈そうな老人だ。右手に僕を、背中に薪を、左手には……猪?ぐったりと伸びた何かの生き物を掴んでいる。すごい怪力だ。人間離れしている。
「急に落ちてくるもんだから驚いたよ。どっか折れてねぇか?」
定まらない思考のまま、記憶が徐々に戻る。自分は大学生で、飛び降りて……?助かる高さじゃなかったはず。色々な偶然が重なって助かったのか。それにしても軽傷すぎる。いや待て、この老人はなんだ?それより自身の身体が問題か。痛みはあるが、足首を捻った程度だ。思考が定まらない。高熱を出した時のような不快感。身体が冷えたからだろうか。
そう、大雨で身体が濡れたはず。川に落ちなかったとして、数時間気絶していたとしても、服まで乾いているのはおかしい。そうだ。山道が乾いているのもおかしい。舗装されたアスファルトでももっと濡れているはずだ。速乾性の吸水素材でもこんな……
今に至るまでの記憶が一気に噴出する。速乾性の素材の話。確か父親の仕事の手伝いで色々な現場を回った時に聞いた。家族、学校、友人、失敗、何、何、あれと、是と、小さな橋があって、
胃液が喉まで上がる。揺れと発熱のせいなのか、脳側の問題なのか分からない。今の僕は正しい思考はできなさそうだ。朦朧とした意識をなんとか保つ。獣道から開けた空間に出ると、小さな家と畑が見えた。古い民家に向かって老人が声をあげる。
「お〜い帰ったぞ〜。メシあるぞ〜布団も敷いてくれ〜」
僕の意識はここで一旦途絶えた。
続く