「しまなみ誰そ彼」の感想を書く
開幕アイスピックで突き刺してくる系の作品である。
突き刺され、血が噴き出す。でもそれは淀んだ血。穴が塞がった後にはスッキリ爽快、新しい世界が見え始める。リストカッターの快感に近いのかもしれない。
LGBTQがテーマではあるけれど、それはあくまでも視点として。表現されているものはもっと普遍的なものだ。
「世界を敵にしてでも君を愛する」なんて荒唐無稽なSF設定でしか成り立たなそうな、誇張極まりないこの表現は、彼ら彼女らの人生には当たり前のように現れる選択肢でもある。その「世界」は、漠然とした巨大な相手などではなく、文字通り自分の身の周りを囲う全て。
身近な人、生活する環境、目耳に届くあらゆる情報。それが悪意であれば、どれほど救われるか。相手を否定できるなら、どれほど楽か。その世界を構築する善意と常識が、牙となって身を削る。そんな視点だ。
そのためこうした題材に取り組んだ作品は、必然的にセカイ系の様相を帯びる。この作品の主要な舞台となる談話室は、つまりはネルフであり、ジアースである。戦いの司令部、世界を変えるための戦場なのだ。
3巻で登場する最強の使徒、世界の使者、小山さんによる断絶の描写は見事で、それを境に各登場人物の間で引かれていた一線が浮き上がって見えてくるようになる。彼ら彼女らは、互いを「理解して」「受け入れていた」から居心地の良い空間を作れていたわけじゃない。
そもそも私たちは何も分かり合えてなどいない。分かち合えてもいない。それでも、互いの身を覆う針に怯えながら、寄り添おうとする姿に、何かを見出している。理解もできないし、受け入れることもできない。でも伝え合う事はできる。そんなささやかな何かが私たちの拠って立つ土台だったりする。
そこで唸らされたのは作品世界のキーパーソンでもある「誰かさん」という仕掛け。「誰かさん」は「誰かさん」でしかない。小山襲来の中で、コミュニケーションの第一歩として「誰かさん」の名前を知ろうとする試みが、理解のためにラベルを貼る行為そのものであることが浮き彫りになる時、読者はそこまであちら側として認識していた環境の破壊者である小山と同じところに立っていることに気づかされる。
じゃあ、どうすればいいのか。寄り添おうとすることすら出来ないのか。その答えは4巻に示されている。
ありふれた答えだと思う。でもとても大変で、覚悟のいることだ。だからこうして、折に触れて確認しないといけない。自覚のない暴力に、身を委ねてしまわないように。
全4巻という長さも含めて、何度も読み返される作品にきっとなる。