猫は、毎日殺される
ビールと酢豚と杏仁豆腐で膨らんだ腹をさすりながら、中華料理店のテレビに映るワイドショーをぼんやり見上げていた。画面の中でレンガ色のジャケットに品のないネクタイを締めた、裏口入学でも斡旋してそうな司会者が、海外のトピックスを紹介していた。
アメリカ、ノースカロライナ州に住む夫妻の愛猫が死んだ。それからしばらくして、死んだ猫のクローンがふたりのもとに届けられた。「新しい猫」は「古い猫」と体格や毛並みだけではなく、なにからなにまで一緒だった。新しい猫は古い猫と同じ場所で眠り、その寝相までそっくりだという。「あの子が帰ってきたのよ!」。猫を抱き白い歯を覗かせて微笑む夫妻の写真が大写しになる。しあわせそうだった。
裏口入学の男は、神妙な顔つきで「これってどうなんでしょうね?」とゲストに話を振った。「えーっ、いくら? いくら?」。お笑い芸人がおどけてみせた。スタジオは笑い声に包まれ、画面は、消臭剤のCMに切り替わった。ぼくは会計をすませると、軽い胸やけを感じたまま店の扉を押す。胃の不快感は、どうやら酢豚のせいだけではなさそうだ。
なぜか気になった。帰宅後さっそくクローン猫について調べる。ワイドショーの情報源は『ニューヨークポスト』だった。元の記事によると、夫妻は猫が死ぬ直前に皮膚片を採取して、それをペット専門の「クローン作成会社」に送っていた。送り状の品名は、DNAサンプル。
ふたりは新しい猫のために新しい名前を考えたが思い直し、死んだ猫と同じ名前にしたという。ちなみにDNAを採取するキットは、日本円で約17万円。クローンの「作成」費用は約270万円。合計287万円。これが「えーっ、いくら? いくら?」の答えだった。(現在、価格はさらに上がっている)
あらかじめお断りしておかなければいけないけれど、ぼくはいわゆる動物愛護派ではない。スポーツハンティング、ミンクの毛皮、象牙、べっ甲細工、ウエスタンブーツ、闘牛、つまり、人が娯楽や装いのために動物を殺すことに特別な嫌悪感はない。人が生きるために動物を殺すこと。娯楽として殺すこと。このふたつを一緒にするのか、と問いただされたなら、それはたしかに違うと思う。しかし、食用であろうと娯楽であろうと装いであろうと、人が動物を殺めるというその「取り返しようのなさ」の前で、「使用目的」の違いは些末なものに思えてしまう。この感情は、ある種のあきらめに似ている。食う。楽しむ。どちらにしても人は、動物を殺す。
では、なぜ、クローン猫に反応したのだろう。夫妻がクローンを愛する気持ちはわかる。なにせ姿かたちだけではなく、寝相まで一緒なのだから無理もない。「新しい猫」にしても「古い猫」と同じように愛されるのなら、それはそれでしあわせではないか。
ここで死んだ猫をA、クローン猫をBとする。AとBは、共通の遺伝子情報を持っている。当然、うりふたつである。しかし、体毛や寝相や鳴き声に惑わされてはいけない。猫Bは「れっきとした」猫Bである。鼻先から尻尾にいたるまで文字通り徹頭徹尾、猫Bにほかならない。断じて猫Aではない。が、猫Bは自分がクローンであることを知らない。そもそも猫にそんなことは理解できない。ならば、どこにも問題はないではないか。違う。
猫Bは、いったいどこへ行ってしまったのか。
どこにも行ってはいないのだ。にもかかわらず、彼もしくは彼女は猫Aとして「扱われて」いる。こうとも言える。猫Bは「封印」された。猫Bは目の前にいるのにもかかわらず、いないことにされた。さらに残酷な言い方が許されるのなら、猫Bは、毎日毎日殺され続けているのと同義である。夫妻にとって、膝の上で喉を鳴らしているのはBではない。死んだはずのAなのだ。
ここに、娯楽や装いのために殺される動物とは、まったく異質の困惑を感じた。それは困惑というよりもむしろ「畏れ」に近い。スポーツと称して動物を殺すだけでは飽き足らず、殺すことによってなにかを「得る」わけでもなく(実際は、殺すことさえせずに)、猫Bはまるで電卓でも叩くように自動的に、存在そのものをなかったことにされたのだ。「いる」のにもかかわらず。
夫妻を責めているのではない。むしろ、同情さえ感じている。なぜなら、ふたりがいとおしそうに見つめるその猫はBであり、Aではないのだから。さらに言うなら、死んだAに対する哀悼さえも消えてしまった。Aは「帰ってきた」のだから。命とはなんだろう。「新しい猫」と「古い猫」は、対面することはなかったという。それがせめてもの救いのような気がしている。
painting:michael borremans