新大久保ラプソディ
真昼間だというのにアパートの外が急に騒がしくなった。窓ガラスの割れる音。パトカーのサイレンがゆっくり近づいてくる。消えた。近い。今度は別のサイレン。救急車だろう。怒号が交錯する。叫び声は一般人のそれとは明らかに異なり独特の凄みがあった。植木鉢をアスファルトに叩きつけているのか断続的に「ガシャーン」という音が路地に響く。「オルァ!」。共用玄関に脱ぎ捨ててあった誰のものかわからない健康サンダルを引っかけ路地に出た。
ここは新宿百人町。新大久保の駅から徒歩3分。そしてぼくは19歳だった。住む家がなかった。S大学に通う先輩のかび臭い六畳一間のアパートに転がり込んだ。家がない。 いま振り返っても理由が思い出せない。そこだけぽっかりと記憶が抜け落ちている。
すぐ近くのマンションに住む若いヤクザが暴れていたのだった。「シャブだな」。野次馬が囁き合っている。女が人質になっているという。規制線は張られていなかった。その代わり、背丈ほどある樫(かし)の棒を持った刑事が、仁王立ちしていた。腕章をしているから刑事だとわかるものの、服装といい髪型といい、暴れているヤクザの兄貴分の風格だ。耳がつぶれていた。柔道かレスリングかラグビーか。規制線がなくても、「兄貴」より前に出る野次馬はいなかった。
包丁を振り回し人質を取って立てこもる。十分大事件だと思うけれど、その日の夜、ニュースはどこも報じなかった。けが人が出なかった、短時間で解決した、そしてこの手の事件は、新大久保では珍しくなかったから。たぶん理由はこの三つだ。
銭湯の脱衣所でTシャツを脱ごうとして、一瞬固まった。ガラス戸の向こうの洗い場に「さらし姿」の人がいた。ひと目で女性だとわかった。鎖骨の下から太ももの中ほどまで、真っ白なさらしを幾重にもきつく巻いていた。不思議な光景だったけれど、自分の周囲を見渡すと誰も気にとめている様子はない。マッサージチェアのおっさんは、コーヒー牛乳を飲みながら、ナイターを見ていた。「また、ポップフライ、辰徳はダメだな」。この町では、ごく普通の「日常」のひとコマだった。
電車賃を浮かすため新宿から新大久保まで線路沿いをよく歩いた。アパートが近づくにつれ、立ちん坊が増える。ほとんどが中南米からの出稼ぎだった。何度か通るうちに顔を覚えられたのか、声をかけられることはなくなった。が、ある日の夜、「オニイサン」と呼び止められた。UCCの缶コーヒーを差し出された。咄嗟にどう答えていいかわからず、高校球児のようにお辞儀をして受け取った。缶は生ぬるかった。その感触はいまも不思議と覚えている。
アパートでゴロゴロしていると電話が鳴った。先輩からだった。女を紹介してやる。喫茶店にいるから来い。ワイン色のビロードの椅子に先輩がふんぞり返っていた。向かいの席にはふたりの女性。ひとりは自分をレナと名乗った。「はっ、はじめまして」。年齢不詳。25と言われたらそうかなと思う。40と言われても驚かない。つけまつ毛と自毛がずれていた。レナは、会うたびに名前を変えた。ユキ、サヤカ、マリ。名前を覚える必要はなかった。虚言癖のある人だった。
もうひとりは、たぶん同い年だったと思う。六本木のマンションで一人暮らしをしているという。自室が、CMや映画のロケにしょっちゅう使われると自慢気に話していた。おしゃれな人だった。少年のような髪型で、当時からダサいの代名詞だった「デニムのサロペット」を格好よく着こなしていた。自分はレズで生理が半年に一度、そんなことも話していた。仕事は知らない。「レナ」と「サロペット」、ふたりの関係も聞きそびれた。その後、四人で沖縄に行った。
かれこれ20年以上、新大久保に行っていない。町の様子がすっかり変わったことはメディアで知った。昔は良かったなどとごちるつもりはない。暮らしていたと言っても、先輩のアパートに転がり込んだ三か月だけなのだから、町の「深部」はわからない。
いま思うと、自分にとっての新大久保は「繭」のような町だった。19歳、住所不定、職業不詳。それを咎められたことは一度もない。それどころか、年齢も住居も職業も一度もたずねられた記憶がない。ウジ虫のようなものだった。そのウジ虫をこの町は繭のように守ってくれた、そんな気がしてならない。
この話を書きたくなったのは、いま、東京でそんな場所があるのかな、とふと思ったからだ。オリンピックを控えている。東京は、ますます明るく清潔になった。「あの時の俺」は、いったいどこに消えてしまったのだろう。
直射日光は眩しすぎる。清潔さは肌寒い。薄暗く、湿っていて、それでもどこかやさしく懐かしい。そんな、緩衝材のような隠れ場所は、いまどのくらい残っているのだろう。「ミルキーはママの味」。あのUCCは、少しだけほろ苦く、そして母の味がした。
photo:Mark Borthwick