ミラクルひかるによる落合陽一
ミラクルひかるさんが、メディアアーティスト 落合陽一さんのモノマネをYouTubeにアップしている、と友人が教えてくれた。
じわじわきた。ニヤニヤが止まらなかった。しかし、動画を見ているうちにあることに気づく。演じているご本人が(神妙そうにしてはいるけれど)いちばん楽しんでいるのではないか。彼女は、落合さんで遊んでいる。直感的にそう感じた。
この二週間、仕事の合間を縫って、複数のブログに書き散らかした「テキスト」を拾い集めては「note」にまとめる作業をこつこつと繰り返していた。エッセイはもとより、日記、小説、寓話、時事問題、思想、哲学、評論、自由律俳句。あらためてなんにでも食いつく自分の節操のなさにあきれた。とりあえず「テキスト」でありさえすればなんでもいいのだ。手当たり次第に手を出す。SNSでもこの調子だから、ツイッターで気にかけてくださる方から、「この人はいったいなにがしたいのだろう」と訝しく思われていたとしても不思議ではない。じつのところ、本人もよくわかっていなかった。
不思議だなあ、とまるで他人事のように思っていたまさにそのタイミングで、冒頭でご紹介したミラクルひかるさんのモノマネを見た。「あっ、そういうことだったのか」。
ぼくは、言葉という粘土を使って、ああでもない、こうでもないと、こねくりまわすことが純粋に好きなのだ。やがてそれは、トラック、ロケット、戦車へと形を変えはするけれど、どれほど精巧に作ったとしても、トラックは荷物を運ぶことはできないし、ロケットは発射されないし、もちろん戦車は戦わない。あくまで、トラック風でロケット的で戦車のような「造形物」に過ぎず、粘土はどこまでもいっても粘土である。
言葉という粘土をこねくり回して、それなりの「形」が出来上がれば、それでもう満足なのだ。早い話が遊んでいる。が、トラックだけをひたすら毎日作り続けるのは性に合わないし、「途中経過」が楽しいのだから、様々なジャンルに手を出すのは自然の成り行きだったのだろう。もちろん、出来上がったものが「よくできていますね」と評価されたなら、これ以上のしあわせはない。遊んでいるだけで十分楽しいのに、その上ほめられでもしたら、それは贅沢すぎる。
逆もそう。自分の書いたものがお叱りを受けたとして(表現する以上、批判は税金のようなものだから、納税せずに逃げ回るのはいかがなものかと思う)、怒られたなら怒られるほど、逆にシリアスな感じが遠ざかる。「ふぅーん」という感じ。おそらく、どこか上の空になってしまうのも「ごっこ」が抜けきらないからだろう。
コピーライターにも似たところがある。一般的に仕事は、経験を積めば積むほど要領は良くなるし判断の狂いも少なくなる。その最終形態が「極める」だ。けれども、コピーはそれとは反対のプロセスを踏む。上手くなってはいけないし、慣れてもいけない。正確には、慣れたとしても、その「慣れ」を表現に滲ませてはいけない。おどおどしている、ぐらいでちょうどいい。こなれた言葉は、受け手に届く前に失速してしまうから。この仕事にはそんなある種の「もどかしさ」がつきまとう。馴れてはいけない。言葉遊びの初々しさを忘れずに。
と、ここまで書いてふと気がついた。たとえばだれかと「スリッパ」について語り合ったとする。私たちは「後ろ手」に粘土を持参していて、その粘土をすばやく成形しては、「こんなスリッパ」と差し出す。たしかにスリッパであるけれど、同時に粘土細工でもある。その意味で言葉とは「重ね合わせ」であり、二重構造になっている。おっと、話が横道にそれてしまった。
「note」を始める際に、ユーザーIDをどうしようかとあれこれ迷った。結局「kuso_gaki」にした。どっかの悪ガキのように生意気なことを言い続けるという意気込みもあったけれど、子供は粘土遊びが好きだから、案外この名前にでよかったのかなとも思っている。
ここにもうひとつ、粘土の工作を追加した。どうです? 言語学「風」エッセイに見えますか。 (ミラクルひかるさんのモノマネはこちらです)
graphic design:peter saville
かまーん!