なおみ、ごめんなさい
ぼくは、大坂なおみさんのファンではないし、テニスが特別好きというわけでもない。人種差別問題に関心はあるけれど、デモや集会に参加するという風に、自ら進んでアクションを起こしたこともない。自分の中に他者を肌の色や国籍によって差別する感情がまったくないのか、と問われると、答えは「ノー」だ。その意味で、一連の「大坂なおみ騒動」に関して、自分はどちらかと言えば「中立的で平均的」な立場の人間だと思っている。
その上で書こうと思う。
彼女は、全米女子オープンテニスの前哨戦「ウエスタン・アンド・サザン・オープン」を棄権した。準決勝まで駒を進めながらコートに立つことはなかった。その理由を彼女は自身のツイッターで「私はアスリートである前に、ひとりの黒人女性です。いまはテニスをプレーすることより、他にやるべきことがあると信じています(要旨)」と胸中を綴った。大会の主催者は、彼女の意思を尊重し、男子・女子ともに全試合を一日延期した。それを受けて彼女はトーナメントに復帰し、決勝で敗れる。「騒動」はアメリカの他のプロスポーツにも飛び火し、メジャーリーグ、NBAでも試合の順延やボイコットが相次いだ。
国内に目を向けると、彼女の一連の言動に対して、とくにネットを中心に、批判的な意見が相次いだ。その論調はこうだ。「スポーツに政治(もしくは思想)を持ち込むな」「対戦相手の心情を考えたならあまりにもわがまま」「プロなら理由の如何を問わず戦うべき。試合放棄は無責任すぎる」。そんな意見が大勢を占めていたように思う。ただし、大会の主催者や全米プロテニス協会が彼女の主張を受け入れ大会を中断し、他のプロスポーツもそれに同調したことで「わがまま説」は鎮静化した。
アメリカに目をやると、日本ではあまり大きく報道されなかったけれども、ジョージ・フロイド氏の警官による殺害に端を発した抗議活動(BLM)は、規模こそ縮小したものの、相変わらず各地でくすぶり続けていた。一部で暴徒化したデモの参加者が、破壊・略奪・放火を繰り返し警察署を包囲した。また、地域の一部を封鎖し無法地帯化するなどの事態に発展していた。実際に黒人のデモ参加者が、白人を射殺するという事件も何件か発生している。
(これは余談になるけれど、覆面を付けたおそらくは白人至上主義者と見られる人物が、レンガや石をデモ隊にそっと手渡し暴力を煽る、そんなビデオも見た)
その間、「ウエスタン・アンド・サザン・オープン」から「全米女子オープン」にいたる約一か月間、大坂さんは目立ったアクションを起こしていない。ぼくが見聞きしたのは、彼女自身がしたためたエッセーとインタビュー映像だけだ。それゆえ、彼女がどんな思いで全米オープンに臨むのか注目していた。(彼女がその間、抗議デモに参加していたことを最近になって知った)
全米女子オープンテニスの初日。黒いマスク姿でコートに現れた彼女に、目が釘付けになった。直感的に「ああ、そういことか」とわかった気がした。マスクには、白人からの理不尽な暴力によって命を落とした黒人被害者の名が白く染め抜かれていた。彼女はマスクを7枚用意したという。7とは、決勝に進出するために必要な試合数と同じ。7枚のマスクと一緒に「出場」し続ける。その思いが勝利へのモチベーションになっていたことは、想像に難くない。
その後、ご存知の通り、彼女は全米オープンで二度目の優勝を飾る。試合後のインタビュー映像、それをぼくは何度繰り返し観たことだろう。「7つの試合、7枚のマスク、そして7人の名前、あなたが伝えたかったことは?」とインタビューアーが「水を向ける」と、彼女はこう答えた。「(逆に)あなたは、どう感じましたか? 自分の行動が人々の(差別を)知るきっかけになったならとよかったと思います」。
彼女の声は少し震えていて、いまにも泣き出しそうで、同時にどこかはにかんでいるようでもあり、そのなんとも言えない複雑な表情が、いまも脳裏から離れない。グランドスラムの表彰式、自分の思いの丈を述べるには、これ以上の晴れ舞台はない。にもかかわらず、彼女は言葉を濁し、逆に質問を質問で返したのだ。
ここから先は、完全にぼくの思い入れと想像である。
彼女は「違う!」と言いたかったのではないか。
話を元に戻す。日本では、思想的、政治的、社会的な文脈で彼女の言動が批判的に語られた。それは違う。全米で、差別問題に乗じ、殺人や破壊や略奪や放火やロックアウトが起きたことも、もちろん違う。すべてがお門違いで筋違い。では、あの7枚のマスクはなにを伝えようとしたのか。
大坂さんは「殺さないでほしい」「普通に生きたい」と、ただそれだけを伝えたかったのではないか。その主張のベースになっているのは、たしかに人種差別である。けれども、差別を政治的、思想的、社会的な問題として「処理」しないでほしい。暴力にエスカレーションさせないでほしい。私は普通に生きたいだけなのだ。それは、主義・主張というより祈りや叫びに近い。彼女の言葉を借りるなら「ひとりの黒人女性」の訴えがそこにあった。言い換えるなら、彼女の思いは、差別より重い。
自分が彼女の立場だったらどうしただろう。人生の晴れの舞台で「殺さないでください」などと懇願できただろうか。同じ人間が同じ人間に対して、肌の色が違うというただそれだけの理由で、「殺さないでください」と訴えかける、その残酷さと理不尽さ。彼女が声を震わせ言葉を濁したことと、それは無関係ではない。
彼女の「逆質問」に、どう返答したらよかったのだろう。いや、そもそも彼女は答えを期待していたのだろうか。あの瞬間、そこにいたのは、USオープンの覇者ではなく、アスリートでもなく、仲間を殺され、傷つけられ、虐げられてきたことに対し、怖い、悲しい、悔しい、二度とこんなことは起きないでほしいという感情が入り混じった、大坂なおみという22歳の女性だった。その祈りの象徴が黒マスクだったのだ。だとしたら答えはおのずと限られてくる。「なおみ、いままで気がつかないで、ごめんなさい」。それが、人間と人間の対話なのだと思う。すくなくとも「一緒に差別をなくしましょう」は、あまりに傍観者的だ。
アフリカから黒人が新大陸へ奴隷として渡ってから300年以上が経過した。いったいなにが変わったのだろう。問題の核心は、なにも変わっていないのではないか。日本のワイドショーのMCは、まるで判で押したかのように、あるいはうわごとのように「差別が一刻も早くなくなればいいですね」とさも深刻そうな面持ちで「大坂なおみコーナー」を切り上げた。違う。彼女は、謝罪を求めているわけではない。しかし、私たちは「ごめんなさい」から始めなければならないのではないか、とも思う。
申し訳ないことをした、間違っていた、気づかないふりをしていた。そこから地面をならし、踏み固め、石を持ち寄り、土台を強固なものにする。その上に、差別の撤廃や、支援や、社会保障や、システムをひとつひとつ積み上げなければ、母屋はいとも簡単に崩れてしまうだろう。ごめんなさいは、その土台だ。
なおみさんが、私たちに感じてほしかったものとはなんだろう。世界で最も美しいファーストサーブを彼女は放った。レシーブするのは、私たちの番だ。 (写真はご本人のツイッター@naomiosakaより)