
南部 歩美「そこに藍の花は咲く」
1.日本伝統の藍染め法
化学薬品や合成染料などは使用せず、天然原料だけを使った日本伝統の藍染め法である「天然灰汁発酵建 (てんねんあくはっこうだて)」。
発酵という微生物の力を借りて染めるこの染色法は、大変な手間を要するため、近年では流通する藍染め全体の1%とさえ言われている。
この技法を受け継ぎ、自宅である富山県魚津市の古民家にて「藍染め屋aiya」を主宰しているのが、南部歩美(なんぶ・あゆみ)さんだ。
手袋をつけず、素手で染め作業をすると手首から下が真っ青になってしまうが、自然由来のため、身体に悪影響を与えることはない。
たとえ染料を川に流しても、自然に還るときに土を活性化させる効果があるほどだ。
まるで我が子に接するかのように毎日藍の様子に目を配り、慈しむように藍をかき混ぜている。
海外で暮らした経験もあるという南部さんは、どのようにして藍染めに携わることになったのだろうか――――。
2.突然の出来事
南部さんは、1985年に富山県富山市で3人きょうだいの長女として生まれた。
小さい頃は、引っ込み思案な子どもだったが、高校時代にハンドボール部の部長を経験したことで、皆を統率していけるような力を身につけることができた。
「子どもの頃、ドキュメンタリー番組などで野生動物の生態がよく特集されていたんですけど、それに影響されて、『将来は海外で獣医師になってアフリカの野生動物を救いたい』という夢を抱いていました」
高校卒業後は、1年間大阪の語学学校へ通い、英語を学んだ。
1年では進学するだけの知識を身につけることができなかったため、卒業したあとは富山へ帰郷し、アルバイトをしながら「動物へ携わる仕事に就きたい」という夢を模索していたようだ。
精肉店を営んでいた父親に進路の話をしたところ、「動物のことなんて俺に聞いても分かんないから、専門家に聞いてみろ」と助言を受けた。
すぐに市内の動物園へ相談に行き、ボランティアという形で動物園の活動に参加することができた。
次第に仕事を任されるようになり、北海道からやって来る馬の飼育を頼まれていたとき、当時付き合っていた男性との妊娠が発覚。
19歳で結婚し、翌年には長女を出産した。
「資格もなかった私が『動物に関する仕事にやっと携われる』と思っていた矢先の出来事でした。いつか海外にも行ってみたいし、もっと学びたいし、まだ自分の時間が使えると思っていたんです。いまとなっては宝物の長女ですけど、当時はすごく戸惑っていましたが、周りの人たちの理解や後押しもあって、母親としてお腹のなかの命に向き合おうと決めたんです」
3.藍染めをやりたい!
夫の実家である京都へ転居したものの、夫は海洋学を学ぶための留学も決まっており、結婚後すぐに離れ離れの生活になってしまう。
それでも夫の家族の支えもあり、初めての子育てに対しての不安はあまりなかったようだ。
それどころか地域にもすぐに馴染むことができた。
このとき、大家族のなかで子育てができた経験は、その後の南部さんの人生に大きな意味を持つことになったようだ。
ただ、そんな生活も結婚7年目でピリオドを打つことになってしまう。
オーストラリアと日本と言う物理的に離れた環境のなかで、「それぞれが暮らす場所でやっていきたい」という思いが芽生え始め、各々の方向性に少しずつズレが生じるようになった。
このまま一緒にいる選択をしても、お互いに自分らしく過ごすことができないかも知れないのではないか。
2人で出した結論は、別々の道を歩み、互いが幸せになることだった。
南部さんにとっては、社会人経験もなく、突然に子育てが始まり、目の前で起こる変化に順応することに必死だった時期を経ての離婚という大きな選択だった。
これを機に、これまでの半生を振り返ってみたとき、長女が3歳のときに一緒に訪れた北海道の森のなかで体験した藍染めの記憶が鮮明に蘇ってきた。
「離婚を通じて自分の半生を振り返ったことが、これからの自分に真正面から向き合うきっかけを与えてくれたように思います。『私は藍染めをやりたい。藍染めをしながらこの子を育てていこう!』と決めたんです」と当時を振り返る。
何の知識も経験もないなかで、まるで藍の魅力に引き寄せられるかのように自分の人生に一本のレールを引いた瞬間だったようだ。
4.徳島で学んだ技法
2011年12月に富山へ戻った3日後には、観光協会に連絡して藍染めを学ぶことのできる場所を問い合わせていたというから、何という行動力だろう。
徳島で藍染め職人が講習会を開催していることを知り、10日間ほど家を空けて勉強に出かけ、「天然灰汁発酵建て」による藍染めの技法を習得。
「貯金もない状態だったから、母からは『成功するかも分からないのに、どうやって娘を育てていくんだ』と反対されました。でも、早く藍染めの技術を身につけたいという思いで一杯だったんです」
富山県には藍染め職人が不在だったため、まずは関連する縫い物について学ぶため、縫製会社へ勤務。
仕事中も常に南部さんの頭には、藍染めがあり、調べれば調べるほど想いは募っていった。
そんなとき、「子どもがいても夢をかなえたい」と語る南部さんを応援してくれた現在の夫と出会い結婚。
結婚を機に彼の実家のある魚津市に住まいを移し、まもなく次女を出産した。
しばらく経ってから、「藍染めに挑戦させて欲しい」と家族へ訴えたところ、想いが実り、早朝に新聞配達の仕事をしながら、日中に夫の実家のガレージを活用して、藍染めの活動を始めることができるようになった。
染め体験やイベント出店を通じて、藍染めの魅力を広めていくうちに、日本で古くから使われてきたタデ科の植物である「タデアイ(蓼藍)」をゼロから育ててみたいと、2018年12月に魚津市にある山沿いの古民家に家族で移住したというわけだ。
5.そこに藍の花は咲く
「藍染め体験や作家とのコラボレーションや商品開発など、これまで様々な『種』を蒔いてきたんです。1年ほど前に、このまま全ての活動を続けていくと身体が持たないことに気づいて一番大切なものだけを続けていくことにしたんです。それが『藍の染め替え』でした」
着られなくなった服などを藍で染め直すこの「染め替え」のコンセプトに、「新しいものは染めません」ということを掲げた。
大事にしているのは、「染める」ことであって、決して「作家になりたいわけではない」と南部さんは熱弁する。
「素敵な洋服をつくる人はたくさんいるから、私まで仲間に入る必要はないと思っています。藍は、古くから庶民の暮らしの中に根付いていましたが、いまは見た目の美しさなどに価値が移ってしまっています。藍には、防虫効果や防カビ効果、消臭効果などに加え、生地を強くする効果もあります。そうした藍本来の魅力を伝えていきたいと思っています」
この地に転居してきたことで、子どもを通じて地域の人たちとも関わりを持つことができるようになり、地域に愛着を抱くようになった南部さんは、放棄された休耕田を使ってタデアイ(蓼藍)の栽培を始めるなどして、地域に恩返しすること試みている。
考えてみると、藍とは実に不思議な存在だ。
染め液に浸した後酸素に触れることによって初めて藍色は生まれるが、「藍四十八色」と呼ばれるほどたくさんの色味があるし、色を重ねることで深い藍色がつくり出されていく。
これは、地域での芸術文化の取り組みと似ているのかも知れない。
アーティストと呼ばれる人を招聘したり大規模な芸術祭を開催したりと、いわば外部からの「化学繊維」に頼っても、それは一過性のものにしか過ぎない。
地元の人たちがさまざまな人と携わり、有機的な「発酵」を起こすことで、少しずつ地域に文化は根付いていくのだ。
そこに多様な色味は生まれるし、そうした人たちをマーブルのようにかき混ぜて花を咲かせてくれるのが、きっと南部さんのような存在なのだろう。
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