浅井 達哉「自分らしさを取り戻す場」
1.まちの整体院ラプレ
『熱田さん』の名で古くから崇敬を集める名社、熱田神宮を中心に多くの人が訪れる歴史と文化の街、愛知県名古屋市熱田区。
この街の一角に、今年3月31日に一軒の整体院「まちの整体院ラプレ」が開院する。
ハワイ語で「日曜日」や「祈りを捧げる日」という意味を持つ「ラプレ(Lapule)」を店名に掲げたこの場所は、睡眠・肩こり・腰痛を専門にした整体院で、保険外の自費診療を行っている。
「妻と新婚旅行でハワイに行ったとき、自然の雄大さやエネルギーに感動して、この名前をつけたんです」
そう語るのは、1987年に二卵性双生児の長男として、この街で生まれ育った浅井達哉(あさい・たつや)さんだ。
2.サッカーから陸上へ
小さい頃は、人見知りの子どもで、友だちと家でゲームをして過ごすことが好きだった。
小学校からはサッカー部に所属し、サッカーを始めた。
「中学に進んでもサッカーを続けようと思っていたんですが、サッカーの強豪中学で練習も厳しいということだったので、ついていける自信がなくて入部を辞めてしまったんです。幼馴染がいた陸上部へ所属したんですが、もしあのままサッカーを続けていたら、また別の人生になっていたんだろうなと思っています」
足が速かったことから陸上部へ入部したものの、自分よりも足の速い人たちと沢山出会い、上には上がいることを痛感した。
卒業後は、名古屋市にある私立高校へ進み、陸上に専念するために特進科ではなく普通科を選び、3年間汗を流した。
「自分が陸上に向いていないことは分かっていたんです。中学でも納得のいく結果を出せていなくて、高校でも全国レベルの人が大勢いたんです。その人たちの中学時代の記録にも届かない状況でしたから。それでも、自己ベストを更新する過程が楽しかったり、技術を探求する奥深さに惹かれたりしていったんです。もっと練習をすれば、上手くなる可能性はあると信じていましたから」
その当時、弁護士へ憧れを抱いていた浅井さんは、高校を卒業したあと、法律の仕事へ就くために、特別推薦で名城大学法学部へ入学。
六法全書を抱えて授業に出席してみたものの、法律に関する膨大な知識量に驚いたようだ。
そして、通っていた大学からロースクールに行く人などは皆無だったことから、厳しい道であることを痛感し、3ヶ月ほどで夢を諦めてしまった。
大学1年生のときは、高校でも良い成績を出すことができなかったため、「やはり自分には向いていない」と陸上競技をやめていたが、中学から続けてきた陸上への想いを捨てることはできず、大学2年から陸上部へ入部した。
「大学陸上部のレベルは高くて、満足のいく成績は出せなかったんですけど、中学・高校時代のときのように言われたままの練習をこなすのではなく、自分たちで練習メニューを考えて練習に励んでいたんです」
どうすれば良い記録が出せるかを考えながら練習に取り組んでいった結果、大学時代には最も記録を向上させることができた。
そんな浅井さんは高校時代から、疲労骨折や肉離れ、ぎっくり腰や膝の内側の部分の慢性的な炎症である「鵞足炎(がそくえん)」など、度重なる怪我に泣かされてきた。
毎年1〜2回は怪我をして、やっと回復してきたと思えば、再び怪我をしてしまうと状態を繰り返していたようだ。
「なんで同じ練習しているのに自分だけ怪我するんだろうと思っていました。いま考えると、身体の各部位で使えていない場所があったから、それが身体の負担になっていたんですよね。固くなった筋肉をストレッチしたり解したりするケアも甘かったんですよね」
3.怪我で苦しんでいる人の役に立ちたい
大学卒業後は、「自分の好きな仕事に就こう」と、高校時代から服が好きだったこともあり、名古屋にあったアパレル会社へ就職し、女性服販売の仕事に従事した。
働いているうちに、売り上げノルマが厳しさから理想と現実のギャップを感じるようになり、1年ほどで退職。
そこで自分の人生を見つめ直したとき、陸上で怪我をして思うように結果を出ない日々が頭をよぎった。
高校時代の陸上部の友だちが柔道整復師の道に進んでいたこともあり、浅井さんは「怪我で苦しんでいる人の役に立ちたい」と理学療法士の養成校に進学。
昼間はアルバイトで働きながら、夜間に学校へ3年間通い続けた。
卒業後、国家試験に合格し、26歳で理学療法士の資格を取得し、名古屋市内の総合病院へ就職した。
初めて自身が主となって、脳卒中や末期がん、脊髄損傷などさまざまな症状の患者と接してリハビリを行うことは、浅井さんにとって貴重な経験となったようだ。
「自殺企図を機に、脊髄損傷などを含めた多発外傷を負った方のリハビリを多く経験させていただいたんです。若い人だと精神的なケアが必要な方もいるので、気分転換も兼ねて、一緒に病棟の外まで車椅子で行くこともありました。希死念慮の強さから、目を離すと車椅子ごと階段から落ちようとする人もいるので、常に気を配る必要がありました」
浅井さんが勤務していたのは、急性期病院だったため、症状が回復すれば、患者は他の病院へ転院してしまう状態だった。
そこで「ひとりの患者とじっくり携わりたい」と29歳からは整形外科クリニックへ転職。
総合病院でさまざまな症状の患者と関わっていくなかで、特に整形外科の患者に対するリハビリに興味があったようだ。
4.自費診療をベースにした整体院
ちょうどその頃に、ある出来事がきっかけで、精神的にひどく落ち込んでしまうことがあった。
ストレスで睡眠障害を引き起こし、朝起きることができず仕事に遅刻してしまうこともあった。
2ヶ月で7キロも体重が減少し、自殺願望が頭を過ることもあったようだ。
こうした経験もあり、自殺やその原因のひとつにもなっているイジメの問題にも浅井さんは関心を寄せてきた。
現在は、イジメをなくす活動をしている団体への寄付も続けているそうだ。
そして、自殺の衝動性や鬱状態などの原因を解決するために、根本的治療として睡眠を改善することが有効なのではないかという結論にたどり着いた。
「身体のことだけじゃなくて、症状を根本から解決していくためには、栄養や睡眠などにも目を向けていかなきゃ駄目なんです。そのためには、対象となる症状が限定されている保険診療ではなく、自由に症状や施術をすることが可能な自費診療をベースにした整体院をつくりたいと思うようになりました」
30歳ごろから独立への思いを抱き、開業準備を進めてきた。
家族や親戚への治療を頻繁に行っていた浅井さんは、実家を改装して整体院を開業することを決意。
「実家を利用すれば、身近な家族や親戚、それに近所の方や友だちなどの健康と笑顔を守れる気がしたんです。少しでも多くの人の健康と笑顔を増やすことが目標なんですよね」
施術の特徴としては、28個の頭蓋骨のつながりを調整する「クラニオセイクラル・セラピー(頭蓋仙骨療法)」を導入している点にある。
軽く身体に触れながら脳脊髄液の循環を改善する治療法として知られ、施術を通して自然治癒力や生命力を高めることができるようだ。
そして、浅井さんは睡眠と栄養のスペシャリストである「睡眠栄養指導士」の資格も取得した。
「専門学校時代の恩師から、中学時代に受けたイジメで脳に障害を負ってしまった人の話を耳にしました。イジメがひとりの人間の人生を台無しにしてしまう可能性があるなんてイジメた当事者の子どもは想像もしていなかったんだろうと思います。理学療法士の仕事を通じて、多くの体や心に傷を負った人たちにも接してきたので、自分にしか書けないような小説を書いて、たくさんの人に障害のリスクや怖さを伝えて、何かを考えるきっかけになればいいなと思います」と教えてくれた。
学生時代から小説を読んだり文章を書いたりすることが好きだった浅井さんは、「理学療法士の経験を生かした小説を執筆したい」という目標もある。
現在は小説の筋書きを書いている段階のようだが、その思いは「悲しみの連鎖を減らして、笑顔を増やしたい」ということだ。
そのために、浅井さんは整体院を開業したり小説を書いたりと、あらゆる方法で世の中が良くなるような挑戦を続けている。
全国にある整骨院や整体院などは、2018年の時点で約5万箇所もあるとされ、全国のコンビニエンスストア数と同程度とされている。
市場が飽和状態になっている業界だからこそ、求められるのは浅井さんのような地元に根ざした整体院の存在なのだろう。
生まれ育った場所へ恩返しをするように事業を始める浅井さんに、僕は思わずエールを送らざるを得ない。
5.自分らしさを取り戻す場
「リハビリテーション」は、ラテン語の「Re(再び)」「Habilis(取り戻す)」が語源だと言われており、現在では「その人らしく生活する権利を取り戻す」という意味として使われている。
そして、浅井さんの整体院の店名にもなっている「ラプレ」は、フランス語では 「呼び戻す」という意味がある。
つまり、ほんらいの僕らの身体を取り戻す場所が、「まちの整体院ラプレ」なのだ。
そして、リハビリの主体は施術者ではなく患者自身にある。
生活の質をどこまで回復・維持させるかは、患者の「権利」に基づいて決定されるというわけだ。
誰かに指示されてリハビリをするのではなく、一緒に話し合い、共に未来をつくること。
もし挫けそうになっても、きっと大丈夫だ。
隣を見れば、ずっと走り続けてきた浅井さんが、今度は僕らの隣で伴走してくれているのだから。
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