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北原 辰也「ほんらいの身体づくり」

1.シュタイナー思想を実践する場

北海道の南西部に位置する伊達市。

市街地は内浦湾に面し、道内でも雪が少なく、1年を通じて気候が温暖なことから「北の湘南」と呼ばれている。

ここ伊達市には、シュタイナー思想を実践する共同体「ひびきの村」がある。

このなかで、夫婦共同生活を送っているのが、北原辰也さんだ。

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北原さんは、37歳のときに、シュタイナー教育を実践していた幼稚園教諭の妻と北海道へ移住してきた。

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現在、市内の「児童発達支援・放課後等デイサービス まぁぶる」で児童発達支援管理責任者として勤務する北原さんは「将来的には、村のなかに移住型・滞在型のシュタイナー的子育てコミュニティーをつくりたいと考えています」と夢を語る。

シュタイナー教育とは、ルドルフ・シュタイナー博士によって提唱された教育実践の総称で、子どもの個性を重視して軸のある人間を育てることのできる教育方法として広く知られている。


2.身体を動かすこと

北原さんは、長野県伊那市で1976年に3人姉弟の長男として生まれた。

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「小さい頃は、落ち着きがなくって、手先が不器用で人の目が気になる子でした。昔から、人を屁理屈で困らせることも多かったんですよね」

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中学・高校時代はサッカー部に所属し、ゴールキーパーとして汗を流した。

高校最後の大会のPK戦で、あえなく敗退し、残念ながら全国への切符は逃してしまったようだ。

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サッカーで腰痛に悩まされていたこともあり、スポーツトレーナーを目指し、千葉大学教育学部スポーツ科学課程へと進学した。

入学してからは、教授の薦めを受け体験学習(Experiential education)の活動に参加。

2年生のときには、屋久島で10日間を過ごした。

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その後はアメリカのワシントン州最大の都市シアトルを出発して24泊という長期合宿も経験した。

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「帆を張って船を進めたり、山脈でロッククライミングをしたりしていました。インストラクターと離れてしまい、遭難しそうになったこともあります」

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同級生たちのように就職活動へ邁進することはなく、アルバイトで貯めたお金で、卒業後はアメリカのバーモント州にあったSchool for International Trainingへ3ヶ月の語学留学に出かけ、本場の体験活動も味わった。

帰国後は、体験学習で知り合った人からの紹介を受け、大手学習塾会社がキャンプ事業を始めることになり、横浜で契約社員として3年ほど勤めた。


3.挫折、そして移住

26歳からは「次の挑戦をしてみたい」と、沖縄県宜野湾市で開校していた全寮制のフリースクールへ就職し、そこで住み込みとして働いた。

「教育者として沖縄へ行ったんですが、子どもたちのエネルギーに圧倒されて、20代という自分の年では受け止めきれなかったんです。新しい学校であるがゆえの不安定さもあって、人間関係に疲れ果ててしまったんです」

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教育者として大きな挫折を経験し、神奈川県に戻りアルバイトとして大手専門小売業店に勤務。

アルバイトからフルタイムを経て店長代行の立場にまでなることができた。

正社員を目指して何度か本採用の試験を受けてみたものの、会社が求めていた組織経営の視点を持ち合わせていなかったため、残念ながら採用には至らなかったようだ。

ぎっくり腰を繰り返し体を壊していたこともあり、そのまま退職。

通っていた整体の治療院での東洋医学の仕事に興味を持ち、30歳から治療院のアシスタントとして働いたものの、3ヶ月で辞めてしまった。

貯金も尽きていたため静養するために実家へ戻り、職業訓練所へ通い始め、市の図書館で非常勤職員として2年ほど働いた。

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その間、ノンフィクション作家の北尾トロが主催していた「本の町」をつくるプロジェクトなどにも携わったようだ。

その後、横浜へ移住し、33歳からは、防水工事業の現場監督として勤務し始めた。

そのあと、シュタイナー幼稚園教諭として働いていた1歳下の女性と結婚。

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ところが、北海道の「ひびきの村」が閉鎖の危機に陥り、再生のために立ち上がった妻が村の代表に就任することになった。

そこで、北原さんも一緒に移住してきたのが7年前というわけだ。


4.子どもたちと向き合うなかで

働き始めた当初は、発達障害に対する知識など皆無だったため、日々の業務に向き合うことが精一杯だった。

転機が訪れたのは3年ほど経ったときのこと。

「子どもたちの凸凹について学んでいくなかで、この子たちって、自分が小さい頃から持っていた特性と同じだと気づいたんです」

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小さい頃から、「何か社会の役に立たないといけない」と感じていた北原さんは、常に社会のなかで生きづらさを抱えていたようだ。

まるで何かに導かれるように、スポーツ科学や体験学習、東洋医学と、みずからの「身体」に関する学びを深めていった。

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「もともと教育が好きで、発達の特性があったことも原因だと思いますが、既存の教育に対して嫌悪感があったんです。いま振り返ると自分がそういう教育を受けたかったんですよね。『そういう教育が提供できる側になりたい』と常に思っていました」と語る。

そして生きづらさを抱えたまま、発達に特性のある子どもと出逢ったとき、自身の身体の未熟さがその原因であることを認識した。

やがてエクササイズなどを通じて身体を整えていくことで、北原さんはほんらいの自分を取り戻すことができたようだ。

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そして自分と同様に苦しんでいる人たちの存在を知るようになり、北原さんは様々な手立てを実践していった。

そうしたなかで、発達のポイントが「脳神経を全身運動から刺激する遊びのアプローチ」にあり、その子の発達段階に必要な動きの刺激を満たすことで、安心できる身体づくりを行うことができることに気づいた。

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ところが、放課後等デイサービスを利用できる人数は限られており、さらに自宅で取り組みを続けてもらうためには難しい面があった。

制度の外側にいる人たちにも届けるために、会社と相談し、43歳からは個人事業主として開業し、「エールプログラム」の活動を始めた。

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エールプログラムは、親子の一時的な支援ではなく、3ヶ月に渡って、北原さんが親子をサポートするという伴走型の支援プログラムが特徴だ。

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5.ほんらいの自分を取り戻すために

まさに天職のような仕事と出合い、活躍を続ける北原さんだが、これまでの紆余曲折は、まるで現在の仕事のために培われてきたようにさえ思えてしまう。

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いままでの経験は、ひとつひとつが実践となり、北原さんの支援を裏付けていることは間違いない。

北原さんは、言葉を獲得する以前の段階で必要な身体を使った体験の必要性を訴え、それを「源体験」と言う言葉で広めている。

北原さんにとっては、これまでの人生の道程がここに行きつくまでの「源体験」だったのだろう。

「身体の安心感を増やすためには、『くう・ねる・あそぶ』を人間の発達順序に合わせて整えてあげることが必要なんです。いまは運動刺激という『あそぶ』ことだけなので、「くう(食事)」「ねる(睡眠)」を整えていくために、移住型・滞在型のコミュニティをつくりたいんですよね」

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身体がほんらい持っている力というのは、社会では過小評価されており、街は健康不安をあおる広告で溢れている。

人はさまざまな理由で病気になり、それを重くし、ほんらいの力を発揮することなく自滅していくことが多いようだ。

発達に対する遅れや偏りというのは、ある意味で身体からの警告信号と言えるのではないだろうか。

いまいちど僕らは自分の「身体」について考える時期に来ているように感じる。

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それを気づかせてくれるのが、北原辰也さんという人なのだろう。


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