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詩的に夢の国
ボクが東京ディズニーリゾートに忍び寄るようになったのは、千葉県民になったここ二年の話。
それまでの22年間のうちに行ってみたいという気も起こらず、関西人らしくテーマパークならUSJに、えっちらおっちら出向くだけだった。
それでもまあ、ミーハーなものでこの二年で四度、ランドとシーに入園した。
交際する彼女に連れられ、そして自らの嫌がらない意思に従って、楽しげな空間でメモリアルな時間を咀嚼していた。
ボクはおもうことが多い人間ではあるものの、他者他物と干渉する機会がめっぽう少ない。ボクの場合そうでなければ、おもうことが多すぎてパンクするし、それを両立できる人ほど何分出来がよろしくない。
ディズニーはボクにとって適度におもえる場だ。アトラクションの待ち時間なんかに、彼女が横に居ようとボソボソひとり言を口にしている。
たとえば初めてパレードを見た時。
人の山が総出で行進する様子を立ち見していて、目に映えるのはやはりゴンドラの上の主要なキャラクターたち。
ボクもそっちを見る。端役みたいなポテトとミックスベジタブルを重点的に追うのは、再来を繰り返しパレードを見過ぎて、もはやキャストの名前を網羅するような通のお方だけだと思う。
でもそういう末端のような役の人も一人一人が役を演じ、物語を奏でているんだな、と観ていて思ったのだ。
きっとそれは特記することでもない。
地域の踊りねり歩く類のお祭りは、阿波でもよさこいでもサンバカーニバルでも、そういうストーリー性を参加者個々人が持ってこそ、祭りの楽しみになるのだろうから、ディズニーが特別そう、って見方はとてもつまらない。
ようは当たり前だけど思ったのだ。
次に思ったのは外国人の写真の撮り方だった。
特に欧米人の女性かもしれない。
彼女らは写真を自撮りや撮ってもらうときに、ポーズを取るのだ。それは日本人としては「まるでモデルみたいに」と表現してしまうだろう。
ハグやキスがコミニケーションとなる文化さえ派手さだと思うボクたちは、写真写りのポーズなんてせいぜい手先指先、顔の角度なんかを気にするのが関の山だ。
でもほんと、彼女らは自分が好きな、あるいはきれいに写る体勢にこだわる。一枚撮るのに時間を要すのだ。
日本人だって、徐々にカメラの前で開放的になってはいるだろうから、そんなのボクの古い見方に過ぎないかもしれない。
そしてボクは今日、園内には入らずとも舞浜駅界隈を彼女とうろついていた。
付き合い始めて二年の記念日だ。すぐそばのホテルに泊まりのんびり過ごすだけのそんな日だった。
思ったのはボクは
女の子が好きだなということだった。
そもそも
女子とディズニーとの繋がりというのはちょっと特別な気がする。それは映画という物語から入り、プリンセスという憧れに魅せられる前提があるから。
男だってそりゃ、テーマパークに入ってしまえば気が高揚するだろうけど、やっぱりそれはザラな感情の起伏だと思う。
もっと適当な話
女性はめかし込めるのだ。
今、めかしを打って知ったのだけど、「粧し」と書くらしい。化粧と繋がるわけだ。
ディズニーリゾートに足を向ける女性の多くはお粧ししていた。とても綺麗に身なりを繕って、楽しい・嬉しいに向かっていく。
男にはそれがない。
しようと思えばできるだろうけど、普段から化粧してない男子では、別の特別が加わってしまう。
となると多くの男ができるのは
せいぜいキャラTに帽子やメガネでおちゃらけることだけで、なんというか喜劇的なものと混じってしまう。
羨ましい――
そんなこと言うと化粧したくない女性に目くじらたてられそうだ。
この羨みは色彩の幅だとわかってほしい。
話せる言語が一つ多いとでも言おうか。
ボクは、とっても外見にこだわりがなく、のうのうとあるがまま主義にかまけている。せっかく彼女との外泊なのに剃り残ったヒゲも、ボクらしいだなんて言い訳にして荷物に詰め込むんだから。
ポエマーなことを言うと
ボクらは感情を体現したい欲求と
その煩わしさとのはざまに在る生き物だと思う。
欲求に対し限りなく「剥き出しに着飾れる」ことに、人としての琴線に触れるのだ。そこに性別はいらないけど。
今現在ボクの仕事は、そういう人をほとんど見かけない職場だ。
ボクだって無彩色のその一部と化している。
だから夢の国に集うきらびやかな女性を見て眩しいと思った。
同時に自分にオスとしての自覚みたいなものにスイッチが入った。
可愛くなろうとしている女性を目で追うとき、その視線は鏡となって返ってきていると思うべきだ。
深淵みたいなことだろうか。
彼女らは
見られたくて粧しているわけではない。それはボクでも知っている。
なりたい自分になるための手段に他ならない。
それを指さし口出す輩の存在なんて野暮でしかない。
ボクが思ったのはそういう場所=人々が感情に素直になり(綺麗になって)登場したくなる場所に、適度に顔を出すべきだということだった。
感情とはエネルギーだ。
昔ながらに云えば「活気」だ。
活気ある町に人は感化される。はやし立てられ、中てられる。
良かれ悪かれ影響を及ぼすといっていいだろう。
ボクはしばらくそういう場を避けている。
疲れるから。満員電車に限らず人の集まりに付き合えない奴だ。
結論というかボクが気づいたことは、もっとちんけなこと。
たった一人、ボクに向けて、ボクに見られることを前提に粧しこんだ彼女を、もっと見なくちゃいけないって、当たり前の話だった。
ちなみにボクはこういう、化粧にまつわる体験をしてみたことがある。
つまりは、煩わしさと憧れとを少し味わったことを述べておきたい。
彼女が好きだ。
でも今日も普段もあんまりそれを体現できていないし、しょんぼりした記念日だったようにも思える。
ディズニーは好きだし、またきっと彼女と来るだろう。
でもどうしたってポエマーな自分が発動するだろうなーと思いつつ、それを心地よく感じていることは否めない。
もちっと笑おう。楽しい嬉しいをポーズとして表すのは、自分と周りにいてくれる理解者のため。
学びなんかじゃない。これがボクなりの夢の国でのストーリー。