手帖の続きは、私の続き
きのう、来年の手帖を買った。その時点で、自分には生きる意欲が満ちているということに気付いた。
生きる意欲がなかったら、何かをやる意欲がなかったら、手帖など買わない。予定をたてる意味がないから。
桃色がかった赤い表紙を選んだ。
調停委員を退職してから6年。参与を退職してから1年。手帳はだんだん薄手の安いものになって行った。目に見える手帖の変化。カルチャースクールのスケジュールだけ間違わなければいい。重要なことをメモする場面もなくなった。
それでも手帖は必要。
生きている証し。人として活動している証し。
ふと古い手帖を並べてみた。
2000年からの手帖の群は私の歴史。私の来た道。それ以前のものは毎年捨てていた。もったいないことをした。ずっと昔は、過ぎた一年の記録をわざわざ保存することもないと思ったのだろう。
それでも21冊がずらりと並んでいる。
親族の命日からネコの命日まで記されている。風に吹き集められた木の葉のように大勢の人と群がっていた日々。そんな人たちが、いつのまにか風に吹き流されるように去って行った。
かくも長い年月、離れることなく、今でも電話をしあう人もいる。何事も、「続く」ということはそれだけで奇跡的なことなのだ。
去る者は去り、残る者は残る。それが人生。そんな人生の足跡が記されている手帖。その年に買った本の題名もメモされている。題名だけではない。文章の一部までも。
古い群の上に来年の手帖をそっと重ねてみる。
手帖の続きは、私の続き。
まだ、もう少しの間、仕事をしていたい。手帖を使う日々でありたい。
古い手帖めくって想う来た道とこれから続く愉しい道を
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