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ショッピングモール (10)

葡萄

「もしもーし」

受話器の向こうの声は香子をからかうような軽い調子だった。セールスなら、こんな話し方はしない。香子は一瞬電話を切ろうとしたが、何となく聞いたことのある声の調子だと思った。

「どちらさまでしょう」「何、気取ってんの。わかんない?」「あ……東野さん?」「やあやあ、分かってくれた?」

もう60年ほど昔、田舎の中学校でいっしょだった東野隆。あれから数十年。同窓会や県人会で出会ったり、グループでお茶飲んだり、その程度。

香子が父の転勤で引っ越すことになったとき、隆は突然香子の家に来た。当時は電話などない。何もかも突然、そんな時代だった。「好きだったよ。また会えるかな」「さあ」「これ、プレゼント」「ありがとう」それだけの別れ。中学3年のときだった。あれは葡萄の形のブローチだったような気がする。

もう70 代半ば。最後に会ったのは3年前。新宿の居酒屋で開かれた中学の同窓会。隆はおそらく中学の出世頭の筆頭の1人だ。女手一つで育てられ、ある教師に「メカケの子、生活保護の子、ビンボー人」と苛められていた。

当時は、戦争で多くの若者が戦死、教員免許のない復員兵や爆撃を生き延びたその辺のごろつきまで先生にされたとか。うわさだ。事実かどうかは分からない。

あの教師はなぜか隆を嫌い、執拗に苛めていた。しかし、隆は殴られても蹴られても負けなかった。平然としていた。そして努力一筋、東京大学を卒業、大手商社に勤め、アラビアのホテル支局長にまで上り詰めた。

「俺の会社は地球の土地全部買えるぐらい金はある」と豪語する隆。「金の唸る声がうるさくて夜眠れないんだ」「わー、おごってくれよ」「何なりと」そんな会話が珍しくもない。高度成長期のころ。

定年前に退社したんだって。ロイヤルホテルの香港マネージャーだってよ。すごーい。田舎に100坪の豪邸を建ててさ、お手伝いさん雇って、お母さんの世話をさせてるって。頼めば、ホテル代わりにタダで泊まらせてくれるよ。タクシー自由に使わせてくれたってさ。

隆の周囲には札束の匂いが漂っていた。同窓会でも県人会でも隆の周囲には大勢が群がっていた。

彼は律儀にクラス会や県人会には顔を出し、小さな集まりのときは奢ってくれた。旧友たちは当たり前のように隆にたかった。皆、図々しい……香子は隆がなんとなく気の毒だった。

記念写真を見るといつも隆は香子の隣にいる。今でも私を好きなのだろうか。ふとそう思ったりしたが、それで終わり。その程度だった。

「俺、寂しんだ」受話器の向こうの声が呻いた。「妻と娘は香港で贅沢三昧だよ。妻は絶対、離婚してはくれない」隆は堰を切ったように話し出した。「金はいくらでも出すから別れてくれと言っても、ヒガシノ夫人でいる方が得だから絶対別れないとさ」「そう……たいへんね」

「君を抱きたいんだ」

香子は絶句した。くどくにしても違う言い方があるだろうに。香子は笑いながら「もう、私たち、そんな年ではないでしょう」「年も何も関係ない。ただ横にいて慰めて欲しんだ」「まあまあ、落ち着いて」「俺、もう長くはない。今、ホテルで独り暮らしなんだ」

「何かあったの?」「さっき、部長に怒鳴りつけられた。資料を間違って違う会社に送ってしまってさ」「……」「俺は土下座して部長の靴を舐めた。ああ、そうさ。出世のためなら土下座だってなんだってする」隆の声は泣いている。

この人……とっくに仕事は辞めてる……おかしい……

もしかして認知……一瞬、そんな考えが脳裏を走った。

                              (続く)


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