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ショッピングモール(9)

包丁一本(完)

夏実と沙織は街角の小さな喫茶店でケーキを前に語らう。3年以上、同じ職場で包丁一本握って働いてきた仲間なのに、こんなふうにお喋りするのは初めて。

「魚臭くない所で、綺麗な白い皿でケーキ食べるの、なんか私には似合わない」夏実は肩をすくめて笑った。本心、自分には似合わないような気がする。

「ほんと。毎日、毎日、魚の首切ったり尾っぽ切ったりだったから、おしゃれなケーキどころじゃなかったね。でもさ、今、わたし、ばあちゃんの相手でクタクタ。魚さばいていたころは幸せだったよ。ばあちゃんがデイケアに行ってくれてる間だけが、ほんと、自分が人間に戻ったって感じ」

沙織は鮮魚士の仕事をやめて一か月しか経っていないのに、急に老けこんだ。夏実は寂しい。自分は威勢のいい沙織の声や足音に励まされていたのだ、と今更ながら思う。帰り際、「これ、お餞別。遅くなったけど」と沙織にモンブランの箱を渡す。

家に帰ると夫が妙にハイテンションだ。嫌な予感。なんだ、不自然なへらへら笑いで話しかけてくるなんて。

「さっき、社会保険庁から電話があった」「社会保険庁?」「君の保険料が払い過ぎで、返還するからATMで受け取ってくださいって」「……で?」夏実の胸が騒ぐ。まさか……「自転車で駅前の銀行に行ったんだ」「あなた、まさか……」「そしたら銀行の前に警官が立っていて……アッハッㇵ」「それで?」「社会保険庁を名乗った振り込め詐欺がこの辺,横行しています。だめですよ、ATM操作したら、だってさ」

「あなた、馬鹿じゃない!」「今思うと危なかったなあ、アッツハッハ」「もし警官がいなかったら、私の通帳から」

夫は何が可笑しいのかケラケラ笑っている。「店が潰れて酒ばっか飲んでるから判断力なくなったのよ。そんな振り込め詐欺、小学生でも見抜くよ」夏実は叫んだ。情けなくて泣きたくなった。

息子の学資にコツコツ貯金していたお金。通帳とカードの場所を教えていた私が間違っていた。アッハッハ、夫の笑い声が聞こえる。夏実の胸に突然怒涛のように怒りがこみ上げてきた。

台所に飛び込んだ。包丁を手にした。自分を抑えることができなかった。夏実は包丁を夫に突き付けた。

「離婚届けはここにある。ハンコ押して」夏実は去年から離婚届けを準備してある。夫は今まで2回詐欺に引っかかった。金銭トラブルに巻き込まれないうちに別れたほうがいいかも、と思っていたのだ。

やっぱり別れよう。

夫は口ごもりながら「なんだよ。包丁を置けよ」「離婚届けに判を押したら」。夏実はじりじりと夫を玄関に追い詰める。

夫は玄関のドアを開ける。こいつ、三枚おろしにしてやる。夏実は包丁を持った手を振り上げる。脳裏にあのショッピングモールの建物が一瞬浮かんで消えた。

そのとき、「夏実さん、さっきは……キャ、な、何してるの」沙織の声。夏実はさっと手を下した。沙織、どうしてここに来たのよ……

沙織は震える声で「あなたにお金借りてたのに、か、返すの忘れてた。どうしても今日返したくて、ひ、引き返してきたの」。

そのとき、「腹減った。今日は刺身食いたい」健太が玄関にヌッと。図書館から帰ってきたのだ。

我が子ながらかっこいい……。

夏実は一瞬息子に惚れた。同時にみじめで泣きたくなった。が、陽気に声を張り上げる。

「バカは死ななきゃ治らないから、ちょっと脅かしたの。それだけ。ごめん、ごめん」「包丁は魚をさばくためのものよ」と沙織も笑う。「知ってる。ちょっと芝居が過ぎた、ごめん」夏実は夫に向かって笑った。

心の中は引きつっていたが。

さっき、一瞬理性を失いそうになった。その時、脳裏に浮かんだショッピングモールの白い大きな建物……。

あそこで働かなければならない。包丁一本で少しでも金を稼ぎたい。私にはあそこしかない。そう思ったとき、自分に戻ったような気がする。

「また、ケーキでお茶しようね」沙織が夏実の手を握る。ガサガサに荒れた手だった。(完)


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