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黒いカラスがどうして白いカラスとして生きねばならないのか

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 自分の正体を隠して生きた人間を描いた作品が、つい数年前にも書かれている。フイリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」という小説で、この小説はロバート・ベントン監督によって映画化された。邦題は「白いカラス」となっているが、この映画にいたく感動して長大な原作も読むことになるのだが、いまはこの映画のストーリーから、一部を切りとってみることにする(原作を凝縮したシナリオが素晴らしい)。

 ストーリーは二重構造になっていて、青年時代のコールマン(この役を今をときめくウェントワース・ミラーが演じている)と、「スプーク」という差別用語を教室で放って大学を追放される老年のコールマン(アンソニー・ホプキンスが演じている)の物語だが、いまここで取り上げるのは青年時代のコールマンである。

 コールマンは生粋の黒人だが、彼の肌は褐色に近く、ボクシングのトレーナーから「黒人であるとは口が裂けても言うな。お前はユダヤ人として通用する」という忠告を受ける。彼はそのときから黒人であることを隠して生き始め、恋に落ちた恋人にさえ彼は自らの正体を隠す。その恋人と結婚することになり、そのことを報告するためにコールマンは母親のもとを訪れる。母親は夜勤看護婦をして子供たちを育ててきた堅実で聡明な人物だった。彼女は息子に尋ねた。
「その人、アリスというの? いい名前ね、式はいつ?  6月14日。そうなの。その前にアリスに会わしてくれるんでしょう」
 するとコールマンはこう告げるのだ。
「両親は死んだということになっているんだ」
「死んだ?」
「兄も妹もいないことにしたんだ」
「あなたの兄オースティも、あなたの妹ジュアンも死んだことにしたの?」
「黒人の古典学教授にはなりたくない。黒人であることを隠すしかないんだ。思い知らされてきたからね」
 コールマンには深い傷を負った過去があるのだ。彼が大学に通っていたとき、女子学生と恋に落ちた。彼女は白人だった。その彼女を母親に会わせるために実家を訪れる。そのときコールマンは母親に彼女を会わすことで、自分は黒人であることを彼女に告白しようとしたのである。
 ドアに現れた黒人の婦人に、彼の恋人は凍りつくような衝撃をうける。彼女が愛した男はユダヤ人だと思っていたのだ。彼女の恋は一気に冷めていった。そういう過去をもったコールマンは、二度とそのときのような屈辱と敗北に打ちのめされたくなかったのだ。だからその新しい恋愛を実らせるために、自らの正体を永遠に隠してユダヤ人として生きる決意を、母親に告げにきたのだった。そんなコールマンに母親は嘆きの声を放つ。

「黒人か白人かなんて。もっと誇りをもちなさい、自分の人種に。あなたは黄金のように輝いている。あなたは輝ける私の子供。あなたたちも子供をつくるんでしょう。その子供たちにも会わせないつもり。私の孫よ、私は孫にも会えないの。それとも、こうかしら。11時15分、ペン駅の待ち合室へきてくれる、子供たちをつれてそこを通るからって、そのときけっして声をかけないで、ただ見るだけだよとあなたは伝えてくる。それが私の誕生日のプレゼントっていうわけね。でも、私はきっとそこに行くわ。ただ私の孫を見るためだけに。だけど、コールマン、そんな危険を背負って生きていけるものなの。不安に苦しむわよ。生まれてくる子供の肌が白かったらどう説明するの。白人の妻が浮気したということにするの。あなたは囚人みたい。雪のように白いのに、あわれな囚人みたい」
 そして茫然として立ち去る息子の脊中に、彼女は嘆きと怒りの言葉を投げつける。
「人殺し」
 コールマンはその後一度も母親や兄や妹に会っていない。家族と断絶して、正体を隠しままその生涯をおくるのだ。このストーリーは偽りの人生を生きた彼を悲劇的に葬送する。




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