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ある日、突然、私は無視された    菅原千恵子

あいこの13


  愛しき日々はかく過ぎにき  菅原千恵子


 三年生の時の先生はお産のために学校をやめてしまわれ、私たちのクラスは、男の先生が受け持つことになった。今までの優しい女の先生とは違い、男の先生は、厳しいという評判だったので、私は少し緊張したが、それも最初のうちだけだった。私には、三年生の時からつきあっていた遊び友達がたくさんクラスにいたので狂ったように遊ぶ日々だった。

 その時々の流行りものというのがあって、お手玉、おはじき、ゴム跳びなど、どれもこれも熱中して遊びたいものばかりだった。不思議なことに、これらの遊びは、どれも私が大得意とするものばかりだった。どの遊びも、私は負けるということがないのだ。私が勝てば勝つほどその遊びを一緒にしている友達の雰囲気が微妙に変化していたのだが、遊びに熱中していた私にはそれに気がつく余裕がなかったのだろう。

 ある日、突然、遊び友達が私を無視するようになっていた。私が話しかけても知らんふりや聞こえないふりをするのだ。今の若い人たちが使うことばで言えば「シカト」というものだったのかも知れない。このシカトは約半年続いた。遊び友達から無視され、遊びを奪われた私には、その半年が、地獄のように思われた。
 
 毎朝目覚めると、学校の友達の無視を思いだし、学校に行くのがとにかく嫌なのだが、これだけは家族になんて、いえないことだと知っている。どんなに私が子供であっても、みんなから無視されているというような話しはできれば誰にもしたくない。それは子供としての最小限のプライドなのだ。ましてや、私のことを信頼し、愛している家族に、みんなから無視されているなんてどうしていえるだろう。どれほど辛くても、自分一人で耐えるしかないのだと私は思っていた。

 まったく元気が湧かないまま、朝ごはんを食べると、のろのろと学校への道を私は歩いた。この頃の私を見て、母はどこか体の具合でも悪いのではないかとよくいっていたが、精神的ダメージが深いために、多分、体にも変調が現れていたのかも知れない。肩が凝り、あくびをよくしていた。意地悪をされていることはいえないけれど、母に肩凝りを訴えることならできる。肩凝りは、越境ということもあって他の人より多くの距離を歩くためだったかも知れないし、精神的なことから来るものだったかも知れないが、とにかく私にはランドセルがとても重く感じられた。

「なんだかちいちゃん、この頃覇気がないこと。よくあくびばっかりしているし、どこか具合でも悪いんでないべかね。いっぺん医者に診せたほうがいいようなきがするんだけど。どうなの、体で変なところはないの?」
 母は、私の額に手などあてがってみたりして、心配していたものである。

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 私を無視していた友達は、みんなあまり学習面においては活発でなかった。どちらかといえばひどい部類だったかも知れない。よく遊ぶという一点で、私たちは結びつき、つきあっていたともいえる。その仲間はみんな激しい気性の持ち主たちばかりで、単純で論理性に欠けていた。それでいて負けが見えてくると、すぐ感情的になり、罵ったり、わめいたりして勝とうとする。もうそうなると手がつけられない。どんなに解かりやすく説明しても、ゴム紐がスカートに触った触らないの水掛け論になり、収拾がつかないうちに授業開始の鐘がなるということの繰り返しだった。

 私は、はからずも越境という自分の意志ではなかった通学の長い道のりを歩きながら、どうすればこの唾棄すべき生活から逃れられるかと、いつも考えていた。そして長い間、毎日歩きながら考えて最後に私が出した答えはこうだった。彼女たちが変わらないのであれば、私が彼女らを超えて行くしかないということである。彼女達に交じってただ遊んでいるだけでは、何の進歩も向上もありえないに違いないと思った。私は決して彼女達と同じではない。家族構成も、それぞれの考え方も違うのだ。いつも一緒に遊んでいるからといって、すべて彼女達に同化しなければならないなんてことはありえないのではないか。

 その何よりの証拠は、私にとって一大事だったゴンタの死を伝えたとき、彼女達は、まるで他人事のように、ゲラゲラ笑って、私の悲しみを解かろうとはしなかったではないか。解かりあえない者たちと、どれだけ遊びがおもしろいからといって、いつもいつもつきあわなければならない必要なんてあるのだろうか。ここまで考えがいきついたた時を境に、私はきっぱりと彼女達の群れの中にはいることを拒否したのだ。

 もう、馬鹿みたいに交じって遊ぶ必要はない。そう思うと、今までの遊びに一喜一憂していた自分が、ずいぶん子供染みていたものだとさえ思えるようになったから不思議である。周りを見渡す余裕も生まれ、よく眺めてみると、私より多くを学んでいるクラスメイトもいることを知った。私を無視している人たちへの関心が薄らいでいくのに反比例するように、今度は学習面で活発な人たちが気になり出した。

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 これまでいつも一緒に遊んでいた群れの中に、Y子がいた。Y子は私と、張り合うほどお手玉も、ゴム飛びもよくできたが、彼女は決して私を無視などしなかったし、いつもと変わらず話しかけてもくれた。私はY子といることがここちよかった。Y子の父親は豆腐屋をしていた。学校から近いから遊びにおいでといわれ、寄り道をしてY子の家に行ったことがあった。Y子の父は、Y子にそっくりの大きなごろんとした目で、幅の大きい顔で、せっせと豆腐を造っていた。

 荒い藁壁の目立つ一間だけの新築の家が、Y子の家だった。お金が貯まってきたら次々足してゆくのだとY子はいった。そして驚いたのは、部屋を取り巻いている藁と粘土の壁一面に、Y子の絵や、習字が画鋲で止められ、飾ってあることだった。私は、自分の描いた絵や習字を机の上や壁などにべたべた張ってはいけないといつも言われていたので、その光景はちょっとショックだった。

「こんなのを張ってしかられないの?」
 私が聞くと、Y子は自慢げに答えた。
「んだって、父ちゃんが勝手に張ってしまうんだもの。うまい、うまいって」
 子供の私が見ても決して上手とは思えないものを、こうして誉める親もいるのだと思うと、私はそのことも驚きだった。

 Y子の父は、どんなに忙しくても授業参観に現れなかったことは一度もなかった。いつも誰よりも早く来て、教室の隅で、Y子の背中にまっすぐ目をやっていたし、Y子が先生の質問に手を挙げなかったりすると、大きな体でY子の机の側までいって、一緒に計算などをしていることもあった。その姿を目にしたときは、ちょっと変な気もしたが、私は、Y子が好きだったので、何も気にならなかった。

 Y子は、算数が得意で二人でよくテストを返されると見せあいっこをしていた。
「Y子ちゃんは、よく勉強ができるね。今度も負けたよ」
 と私がいうと、
「だって、私は勉強を習っているもの」
 とY子は笑って答えた。学校以外の場所で勉強を習うことができるなんて、私は生まれて初めて知って本当に驚いた。
「誰でも習うと勉強ができるようになるんだよ」

 Y子のことばは、どれほど私の心を励ましてくれたことか。私は、自分を無視した人たちよりも絶対成績では負けないぞと悩みの果てに誓ったばかりだったから、その学習塾がどんなところなのかよく解からないまま、私もその学習塾にゆきたいと切実に思ってしまったのだった。私は家に帰ると、すぐその話を母にした。

「ね、だから私もそこへ行きたいと思っているんだけど」
「でもどうやって通うの? 学校よりももっと向こうにあるんだったら、市電で通うしかないっちゃね。だけど通い続けられるもんだろうか」
「大丈夫。Y子ちゃんと一緒なら絶対通えるってば」
 こんなやりとりのあと母は、塾にゆくことを許してくれた。

 初めてその塾にいったときのことを私は強く印象に残っている。先生は、女の人で、前は学校の先生だったとY子が教えてくれた。先生は、なんでも自分の好きなものを勉強していいといったが、初めてだったので私は何も持って来ていなかったために、先生がガリバンで印刷した漢字の問題を私にくれて、やってみるようにと優しくいった。塾とはいってもそこはごく普通の民家である。

 先生には、ひどくうるさい学齢前の男の子がいて、玄関の戸を開けたり閉めたりして、何度も出入りしていた。そのこと以外は、私はここで勉強するのも悪くないと思ったのだった。電車で通うのも、珍しくおもしろかった。
「Y子ちゃん、私気に大ったよ。あさってここに来るのが楽しみだね」
 私は、Y子と長く一緒にいられるのもうれしかったし、今日は塾で何を勉強しようかと相談して二人で決めるのも楽しみの一つになっていった。いつのまにか無視されたと思っていたことが不思議なくらい私は元気を取り戻していた。

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