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俳句先生のこと   帆足孝治

あいこの12


山里子ども風土記──森と清流の遊びと伝説と文化の記録   帆足孝治

俳句先生のこと

 小学校を卒業するとき、受け持ちの先生が苦心して「卒業文集」というのを作り、記念として皆んなに配ってくれた。今ならさしずめ「卒業アルバム」というところだが、物資の乏しかったあのころは、謄写版で印刷したその文集が精一杯の記念品だった。私は、人の書いた作文など興味もなかったから、そんなものはすぐ失くしてしまったが、その中に二首だけだったが私の俳句が収録されていた。どちらも季語のない拙句である。
 
 ひとつは、俳句が好きだった先生が皆んなに「灯」という題で俳句を作ることを教えたことがあって、その時に私か歌ったもの。もう一首は、あの大分、別府の修学旅行から帰って間もなく、「海」を題にして歌をつくるよう求められた時に歌ったものだった。最初の句は、

 ともしびや 夕やみ迫る 城下町

 というのだったが、実を言うとこれは先生がこの文集に載せるために手直ししてくれたものである。その頃の森小学校はもと森藩の陣屋があった高台にあって、森の城下町からは商店街になった坂を登りきったところにあった。その坂の上には大きな石の鳥居があって、私たちは毎日その鳥居をくぐって学校に通ったものである。

 私は、「ともしび」という題で俳句を作りなさい、といわれたとき、その題を「ともしびイ、ともしびイ、ともしびイ……」と念仏のように唱えているうちに、すぐに夕暮れのその坂の商店街の景色が思い浮かんできた。それですぐ、「ともしびや 夕やみ迫る 坂の町」という句を詠んだのだが、先生はふだん出来の悪い私が、珍しくいい感じの俳句を作ったので少なからず驚いた様子だった。これが卒業の記念文集に載せられたのである。

 それでも、文集に載せるにはもっといいものにしてやろうと先生の親切心が働いたのだろう、灯が季語になるのかどうか知らないが、私の知らないうちに最後のところが「坂の町」から「城下町」に改められてあった。直されてみれば、確かに「坂の町」より「城下町」の方が森小学校の卒業記念文集にはふさわしかったが、実は私は、「坂の町」のままの方が俳句としては情感が出ているような気がして大いに不満だった。

 もう一首の方は、先生が別府湾の海を見た時の印象を俳句にするよう求めたのに応えて詠んだもので、

 夕焼けの 沖へ出て行く ヨットかな

 という句である。
 初めて海を見た生徒たちの歌にはかなり物凄いものもあって、誰の句だったか忘れたが、「桟橋や 津波寄せくる 波の音」と詠んだのがあった。先生は、その生徒を皆んなの前に呼び出して。
「お前なア、津波ちゅうんを本当に知っちょるのか? 桟橋に津波が押し寄せてきたら、お前なんかアッと言う間に流されちしまうぞ!」と言って笑った。でも本当のところ森町の子供の大半は海など見たこともなかったから、「津波」も[さざ波]も区別がつく筈もなく、そんな言葉は知っているだけでもすぐに使ってみたかったのに違いない。

 私の方は、薄暗くなっていく別府湾のずうっと沖の方の水平線付近を、出て行くのか帰ってくるのか分からないがヨットが浮かんでいる、そんな景色を想像しながらその句を作ったのだが、先生に指名されたので立ち上がってそれを披露したところ、何を思ったか先生は「うまいっ!」と手を叩いた。先生は、「皆んな! 先生が帆足君の句をうまいと言ったのは、先生も帆足君と全く同じ情景を思い浮かべていたからなのだ」と説明して、自分の作った歌を披露した。こんどは私が「うまい!」と思う番だった。
 それもその筈で、そのとき先生の作った歌は、

 夕焼けの 沖に白帆が 二つ 三つ

 というものだった。確かに、先生も私と同じような景色を想像して詠ったのだろう。でも、私は先生の「二つ 三つ」には正直「参った」と思った。雑誌「少年倶楽部」の滑稽和歌をまねするくらいの句力しかない私たちには、「ふたっ みつ」は到底出てこない言葉である。

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