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モネも、セザンヌも、シスレーも、ルノアールも、マネも、今日名を残している大画家たちの絵がばたばたと落選した

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 謙作はさらに山道を上がっていった。もうそのあたりの道は舗装道ではなく草が謙作の姿を隠すほど茂っていた。その草をかき分けかき分けさらに上がっていく。ぱあっと視界が開けた。眼下には部落の全貌が、そしてはるか彼方に北アルプスの重畳たる連なりが見えた。謙作は《写ルンです》を取り出すと、その光景を捉えてバシャリとシャッターを切った。

 その旅から戻り、《写ルンです》を珈琲亭のテーブルに置いた次の木曜日だった。昼下り、いつものように窓際のテーブルの椅子にすわると、いつものようにオーナーの曾孫がオーダーを取りにやってくる。
「あの、これ、また《クジラ絵本クラブ》という人から、渡辺さんに渡してくれって頼まれたんですけど」
 その紙袋のなかには《写ルンです》が二台とピンクの封書が入っていた。

《謙作さん、クジラ絵本クラブは、茫然としたというか、なんだこれはとただあきれたというか、どうして一枚なんですか。二十四枚も撮れるんですよ。どうしてぱちぱち撮ってこなかったのですか。今度は《写ルンです》を二台同封しました。ぱちぱち、ぱちぱち、もう一度言います、ぱちぱち撮ってきて下さい。今度は中国です。謙作さんが開拓した村は、もうなくなっているのかもしれません。しかしそこにいけばきっと開拓村をしのばせる景色があるはずです。それらの景色をぱちぱち撮ってきて下さいね。往復のチケットや滞在する費用などは、ぜんぶ旅行会社の人に払い込んであります。明日にでも有楽町にあるオフィスにいって下さい。いろいろと面倒くさい手続きをしなければいけませんが、そのぐらいはがまんして下さいね。そして中国から戻ってきたら《写ルンです》をこのテーブルにおいて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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公募展に落選した絵を集めて落選展が開かれた。人々は落選展の方を見に行った

一八六三年、美術界にある一つの事件が起こった。パリでのことである。その年に行われた国家がスポーサーとなった公募展に五千点もの作品の応募があった。三千点近くがばっさりと落とされるが、このとき落とされた画家たちから激しい抗議の声が上がり、ちょっとした社会的騒動になってしまった。そこで落とされた作品を同時に展示するというなんとも奇妙な展覧会が開催されるのだ。するといままで展覧会などに足を運んだことのない人々まで会場につめかけ、なんと展覧会の初日に七千人もの人々が落選展を訪れたというのだ。そして絵の前に立ってさかんに論じあった。

吉田秀和さんはこのあたりのことをこう記している。「フランスの社会で、公衆が大挙おしかけてきて、美術作品を見て、自分たちの意見を自由に述べあうようになったのは、どうやら、このころかららしい。美術が、それまでの貴族や通人たちの限られた階層の関心事だった在り方から大きく変わってきたのである」そして「このころフランスには、芸術をめぐって、世論というものが形成されつつあったのだろうか」

この落選作家のなかにモネがいた。その落選した作品とは、いまでは数十億もの値がつくあの名高き「草上の昼食」だった。落選したのはモネだけでない。ホイスラーも、セザンヌも、シスレーも、ルノアールも、ピサロも、マネも、今日名を残している大画家たちがばたばたと落選している。何度挑戦しても落選する。彼らはやがて憤然として立ち上がるのだ。公募展とは針の穴を通るようなものだ。その小さな針の穴をするりと通っていくのは、権威に迎合した、見栄えのいい、八方美人の、あたりさわりのない、そこそこに小さくまとまった器用な作品ばかりである。大きな魂をもった、新時代を切り拓く、パワフルな、生命力あふれる絵がどうしてそんな小さな穴をくぐり抜けられようか。彼らは公募展を蹴飛ばして、新しい道を切り拓くための活動に取り組んでいく。

長く果てしない道だ。いや、道そのものがないのだから、彼らの前に広がる荒野を独力で切り開いていく以外にない。何度も落選するセザンヌは公募展に早々に見切りをつけて、個展を開くことで新しい活路を切り開こうとした。しかし満を持して展示した彼の絵はことごとく嘲笑され罵倒される。それはひどいものだった。

例えばこうである。「とにかくセザンヌの絵の前は、急いで通り過ぎるべきだ。もし立ち止まって彼の絵を見ようものなら、おなかの子に呪いをかけられ、赤ちゃんは誕生前に黄疸にかかってしまうだろう」と。何という悪罵。繊細な神経をもつ芸術家たちにとって耐えられないばかりの嘲笑と悪罵である。作品が攻撃されただけではなく、彼の存在さえも否定された。打ち砕かれたセザンヌは、パリを捨てて郷里プロヴァンスに帰る。敗北したわけでも、逃走したわけでもない。その地でさらなる闘志をかきたて、黙々と彼が歩く道を切り開いていった。芸術家とは道なき道を歩く人であり、その作品によって道を切り開いていく人のことなのだ。

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 ナンタケットは、アメリカ北東部、マサチューセッ州ニューイングランドの沖合に浮かぶ小さな島である。しかしこの島はかつて捕鯨基地として栄えた島で、いまでもその時代の痕跡をあちこちにとどめているのは、住民がその景観を守り続けているからだった。すべての建物は木造建築で、その外壁には杉板を使うことが義務付けられている。建物だけではない。かたくなに旧時代の歴史や文化を守り続けている島だ。

 映画製作の大プロデューサー、ニール・パワーズもこの島の住人だった。この島に四つある集落の一つ、スコンセットに建つ築二百年の捕鯨船長の家を買い取り、その広い邸宅に二人のメイドと住んでいた。華やかな銀幕の世界の住人だから、さぞやその邸宅で派手な生活を過ごしているのではないのかと思わせるが、実際はまるで逆で、世を捨ててしまった人のように、ひっそりとした孤独の日々で、この邸宅を訪れる人は郵便配達人だけだった。

 その邸宅の二階のテラスから海が臨める。その港に彼のレジャー艇が係留されている。その高速艇を飛ばしてボストンやニューヨークに出ることもあるが、それは一年にほんの数えるほどであり、普段その艇に乗るのは島の沖合で釣りをするためだった。それも魚を釣るというよりは、釣り糸を海にたらして思考し思索するためであった。なんといってもいつも彼の脳裏にあるのは映画のことだった。彼の頭のなかは映画の構想が渦をまいていた。撮りたい作品がいくつもある。

 それらの作品がしびれをきらして、早くおれの映画を、私の映画を撮ってくれと催促するのだが、しかしおいそれとその声に乗るわけにはいかない。膨大な資金を投じて製作する映画は、なによりもまず興行的に成功させなければならない。そしてなおかつその作品は映画史に残る傑作でなければならい。彼の映画に対する要求は海のように大きく深いのだ。だから彼が一作作り上げるにはいつも五年の歳月がかかるのだ。

 彼がはじめて映画製作に取り組んだのは三十三歳のときだった。その映画は彼が体験したベトナム戦争を下敷きした作品だった。その映画はいきなりカンヌでグランプリを受賞する。五年後に第二作「アメリカの幻想」を放つのだが、この作品は大ヒットしたばかりか、アカデミー賞の八部門を制覇して、パワーズはそのときから伝説の人となった。四十代に入って二本、五十代にも二本、六十代に入っても二本と五年に一作という創造のサイクルで作りあげる映画は、いずれも完成前からマスコミで大きく取り上げられ、その映画が封切られると世界中の映画館に、どっと彼の映画を待ち望んだファンがつめかける。これをパワーズ現象と呼ばれるようになったが、彼の映画がいかに待望されているかのあらわれだった。五年周期で登場してくる作品は、まるで沈黙の蔵で長い年月をかけて火の格闘をさせてきた極上のワインのように、待ち望む観客の期待をけして裏切らない、どの作品も映画史の残る傑作だった。

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「artody-chiaki」さんのサイトを訪れるとき、あるときはぐったりと疲労したとき、そのサイトの表紙にしているNick Caveの「To be by your side」を聴くことにしている。鴨が隊列を組んで蒼い空を飛行する映像が流れるなか、彼はこう歌っている。

Across the oceans across the seas,
Over forests of blackened trees.
Through valleys so still we dare not breathe,
To be by your side.

Over the shifting desert plains,
Across mountains all in flames.
Through howling winds and driving rains,
To be by your side.

Every mile and every year,
For everyone a little tear.
I cannot explain this, dear,
I will not even try.

それにしても「artody-chiaki」さんのサイトは広大だ。よくぞこんな広大な森をつくったものだと感嘆する。ぼくの愛するオキーフとスティーグリッツの戦いを描いたページもあるに違いない。この広大な森に分け入って、彼らのページを探しにいこう。

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