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山里こども風土記  帆足孝治

 担任先生との交換ノート

 秋になって雨の日が多くなると、私は森駅に傘をもって叔父を迎えに行くことが多くなった。だいたい叔父は傘を持って歩くのが嫌いで、朝、少々天気が悪そうに見えても、降ってさえいなければ傘は置いて行った。だから帰る頃に雨が降っていれば、たいていは暇な私か駅まで傘をもって迎えに行かされることになる。当時、まだ田舎ではめずらしかった黒いコウモリ傘をもって雨の中を十分以上歩いて行くのだが、真っ暗な上ノ市から平にかけては、特に雨の晩は真っ暗闇になった。だから十文字まで来て街並が急にパッと明るくなると、何だか都会にでてきたようで、うっとうしい雨の出迎えも苦にならなかった。

 ある雨の晩、私はいつものように傘をもって森駅で叔父の帰りを待ったが、その晩はどういう訳か、叔父がいつもの汽車に乗っておらず、その後の宝泉寺線の混合列車にも乗っていなかった。
 次の上り列車の到着は一時間以上もあとになるので、私は迷ったあげくにいったん家に戻って出直すことにして、誰もいなくなった駅を出た。そして駅前広場を斜めに横切って帰りかけたそのとき、駅の隣りの人気のなくなった大分交通バスの車庫に一人のおじさんがたたずんで、雨の空を見上げながら寒そうに体を上下に揺すっているのが見えた。どうやらさっきの汽車を下りて駆け出してはみたものの、あまりに雨が強く降っていたので雨宿りをしていたものらしかった。どこかで見た覚えのあるような人だったが、どこの誰か思い出せないまま、私は近寄って「傘はないんですか?」と訊いた。おじさんは「そうなんだよ、こんなに降るとは思わなかったから傘を持ってこなかったんだ」と言った。

 私は、ちょうど叔父のために持ってきた傘が不要になっていたので、「よろしかったらこれをどうぞ使って下さい」といって差し出した。ところがおじさんは「だって俺は栄町まで行くんだよ、いいのかい?」と言った。「いいんです、ボクも同じ方向です。上ノ市ですからそこまでは一緒です」といって傘を手渡し、一緒に歩きだした。おじさんは何度も何度も「悪いね、助かったよ」とお礼をいいながら本当に嬉しそうに歩いた。なんだか私まで嬉しくなるような喜びようだった。
 上ノ市まできて、私が「じゃあ、ボクはここから曲がりますので」といったら、おじさんは私に傘を戻しながら、「いやア助かったよ、ここからは走っていくからもう大丈夫だ。どうもありがとう」と言った。私はそのおじさんがどこの誰か知らなかったが、まだここから栄町までは遠いので、「どうぞこのままこの傘を持って行ってください」と言った。

 実際、上ノ市から栄町まではすぐ隣りとはいってもずいぶん距離があり、橋をわたってずっと暗い坂道を上っていき、土木事務所の前を通って戸狩から第二分団の火の見櫓の下をとおり、警察署よりまだ先までいかなければならない。せっかくここまで傘に入ってきたのに、ここから走ったのでは家につくまでに間違いなくびしよ濡れになってしまう。それではここまで傘に入ってきた甲斐がないではないか。
 私かさらに「どうぞ、このまま差して帰ってください」というと、彼はこんな子供の言うとおりに傘を借りていっていいものかどうか、少しためらったようだったが、終いには「そんならせっかくだから借りていくことにしようか。きっと明日には返しに来るからね、どうもありがとう!」といって、その傘をさしたまま闇の中へ消えていった。

 当時は今と違って、玖珠あたりではコウモリ傘はとても高価な貴重品だったので、おばあちゃんなどは私か知らない人に傘を貸してしまったのを心配していたようだった。私も栄町の人とは聞いていたが、実際には傘を貸した人がどこの誰かはっきりとは知らなかったので、もしあの傘が返ってこなかったらどうしようと、内心はとても心配だった。
 幸い傘は翌日、私が学校に行っている間に無事戻っていたが、借りていったおじさんは大変助かったと言ってお礼に沢山の立派なトマトと茄子を届けてくれたそうだ。私は、図らずも人助けができたので何となく嬉しくて、四、五日してからそのことを、学校の先生との通信帳に書いた。通信帳というのは、そのころ受け持ちだった安永先生が生徒との気持ちの交流を大切にしようと考えて始めた一種の交換ノートのようなものだった。

 先生は、日頃口数の少ない控え目な私が書いた何気ないその出来事のことがたいそう気にいった様子で、やがて返されてきたノートには、赤インクの上手な字で「帆足君、先生は君の優しい心にも気づかず、いつも君を叱ってばかりいたね。本当に済まなかった。君の優しさと親切心には大いに感動しました。この気持ちをいつまでも大事にしようね」という趣旨のことが書かれてあった。私としては、これは別にそう感動を与えるほどの話ではなく、たまたま通信帳に格別書くことがなかったので、こんなことでもいいのかなあ、と案じながら書いたものだった。ただ自分としてうれしかったことをそのままノートに書いたまでのことだったのだが、それでも先生が私の下手な文章から、あの嬉しかった気持ちを読み取って分かってくれたことは何よりも嬉しかった。

 私は学校へ行く時は、毎日同じ道具をもって行ったから、先生とのやりとりを書いた通信帳だけはいつもカバンのなかに入っていた。だいたいノートなどというものは算数も国語も、理科も社会も、みんな一冊の同じノートで済ませていたから、毎日同じ道具を持って行っても大した重さにはならなかったのだろう。何しろ私は予習や復習などというのをやったことがなかったので、学校から帰ったら、もう勉強のことはすっかり忘れて遊び呆けてしまい、また翌日になればカバンの中身を改めもせずにそのまま学校に持って行くのである。だから、たとえ今日が何曜日であってもカバンの中身はいつも同じで、学校から帰って次の日のために道具をそろえるなどということをやったことがない。

 毎週、水曜日だったか木曜日だったかに習字の時間があったが、私は毎回習字の道具を忘れていった。私だけでなく、当時は学校に持って行く硯(すずり)や筆を持ってない子は大勢いたし、まして習字のために毎回白い半紙を買えるような家庭の子供は少なかったので、先生に毎回「習字道具は?」と聞かれるまでもなく、先をとって「忘れました」と答えるのである。それでも先生のほうは別段あきれるふうもなく、道具を持っている子には筆で、忘れてきた子にはエンピツで、それぞれ習字の勉強をさせていた。

インチキ釜鳴らし事件

 都会育ちのマル子おばちゃんは、田舎のきつい百姓仕事になかなか慣れず、いつも無理をしていたようで、まだ長男の善ちゃんが小さかったころひいた悪性の風邪がもとで左の耳を悪くしてしまった。
 そのころ、田舎回りの釜鳴らしというインチキ占い師がいて、秋の農閑期になるとあちこちの村を渡り歩いていた。誰が招いたのか、一度、上ノ市部落にもそれがやってきたことがある。そのころはまだ、私の家の前に昔は殿様がよく来て茶を飲んだという古い立派な茶室があったが、そこで釜鳴らしの行が行われることになった。
 祖父は、「そんなものを見に行くものではない!」と言って家に残っていたが、おばあちゃんもマル子おばちゃんも、そして私も見に行った。

 私は一番後から家の中に入って、すでに大勢集まっていた人達の後ろから覗いてみたが、茶室の中央には修験道か山伏の風をして白い手ぬぐいを被った男が水の大った刃釜を前に座っており、何やら気合いのような声を上げていた。小さな刃釜には底のない桶を長くしたような木のワッパが嵌められており、火のついた小さなコンロにかけられていた。
 子供だった私にも、それがいかがわしい見せ物ということは分かっていたが、釜を鳴らすということは一体どういうことなのか、怖いもの見たさに人の後ろに隠れながら覗いたのだった。
 いろいろ勿体をつけて前置きを言っていた男は、やがてすっくと立ち上がると、持って来たワッパを嵌めた釜に向かって、「ええいッ、泣けいッ!」と大声で叫んだ。そして不思議なことがおこったのである。何と、その小さな刃釜がウワーンと家中に響くような甲高い不思議な音で泣き始めたのである。

 私は「騙されまいぞ」と、気を確かに持つように努めたが、確かに釜はわんわん鳴っているし、みんなにも聞こえているようだった。私は、これはきっと催眠術か何かのごまかしに違いない、いくら念力でも、ただの釜が気合い一つで鳴りだすなんてことがあってよい筈がないと考えた。騙されてはいけないと思ったわたしは、もし催眠術にかけられてしまったのなら私だけでもそれから目を覚まさなければいけないとそっと家の外に抜け出した。外には誰もいなかったが、外からでも確かにあのウワーンという釜の鳴る音は聞こえていた。
 不思議なことがあるものとあやしみながらも、私はもう一度、正体を確かめようと家の中に入ってみた。丁度、男がワンワンと唸りつづけている釜を手に取って、輪になっている見物大たちの前を回り始めたところだった。件の男は「この不思議な釜は、体に悪いところがある人の前に行くとたちまち鳴り止みます!」と言って、輪を作っている人達の前をゆっくり回りながら一人一人に釜を近づけた。みんな、自分のところで釜が泣き止んだらどうしようと恐る恐る釜を覗き込んだ。そして釜はついにマル子おばちゃんの前まで来たのである。マル子おばちゃんは頭を釜の上に出し、まず右の耳を、次いで左の耳を釜に近づけた。そのときである。釜はとつぜん、ピタリと泣きやんだのである。

 マル子おばちゃんも近所の人連も、この不思議な現象には少なからず驚いた様子だったが、おばちゃんの耳が悪いことは近所のおばさんたちならみんな知っていた筈だから、私は、あのインチキ男はきっと誰かからマル子おばちゃんの左耳が悪いことを前もって聞いていたに違いない、と想像した。みんなをたぶらかす為にマル子おばちゃんの耳が悪いのを利用したに違いなかった。
 私は釜が鳴ったこと自体が腑に落ちないし、第一、気味が悪かったのですぐ家に戻った。だから、それからどんなことがあったのか知らないが、信心深いマル子おばちゃんはインチキ男から、耳にいつも近付けるようにすれば、いずれよく聞こえるようになるという丸い緑色のお守り石を買わされたようだった。

 そのことがあってから、もともと信心深かったマル子おばちゃんは、明らかに迷信と思われるようなことでも、以前に増して簡単に信じるようになった。高塚のお地蔵様がよく病気を直してくれると聞くと、当時は北山田の駅から山あいをあるいていかねばならなかった驚くほど遠いところまで出向いてお参りしたし、神様や仏様を丁寧に拝むようになった。身体が弱く、無理が利かなかったから、家族みんなのためにも何とか元気になりたいと真剣に祈っていたに違いない。

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帆足孝治さんについて
帆足さんはイカロス出版に創業者である。数多くの本を刊行しているが、帆足さん自身の著作もまた十数点も刊行されているが、それがすべて飛行機の本だった。「ボーイング旅客機」とか「名機250選」とか「ゼロ戦と隼」とか。帆足さんは航空機の専門家でもあって、のちに航空ジャーナリス協会の理事の職に就いていたりしている。そんな帆足さんが一千枚をこえる大作「山里こども風土記」を「草の葉」に投稿されてきたのだ。この大作は「草の葉」に掲載され、その後「豊後こども風土記」と改題されて「イカロス出版」から刊行された。


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