すさまじい野兎の喧嘩 帆足孝治
上ノ市部落の長老格だったおじいちゃんは、何事にも真剣に取り組む人だったので、魚漁りでも、米作りでも人一倍上手にやってのけた。おじいちゃんは栗の季節になるとよく一人で奥山と呼ばれる遠くの山まで出かけ、たくさんの栗やアケビや茸を採ってきた。朝早く出かけるので、子供だった私は祖父の出掛けるのは見たことがなく、ほとんど暗くなってから、かまぎを栗で一杯にして帰ってくる祖父を道端まで迎えに出たものである。
そんなおじいちゃんがある日、栗や茸と一緒に二羽のおおきな野ウサギを持ち帰ったことがある。どちらも茶色い見事な野ウサギで、子供だった私には、両手で耳をもっても持ち上げられないほどだった。
その晩、「こんな大きな兎をどうやって捕ったの?」と不思議がる家族と一緒に兎汁を食べながら、おじいちゃんはこんな話をしてくれた。
その日、朝早く奥山に分け入ったおじいちゃんは、辺りにたくさんのマイタケが群生しているのを見つけ、「今日は栗よりまず茸だ」と、茸狩りに夢中になっていた。
これで今日も家族を喜ばせることができるという安心感から、すっかり愉快になって、そばの大きな栗の木に寄りかかっていると、その木の根元に異様なものがついているのに気がついたのは、尻がそれに触れたからだった。
それは大きな蜂の巣だったそうで、おじいちゃんはとうとう蜂の大群に襲われる羽目となり、大慌てで斜面をカマギごとどこまでも転がり落ちたそうだ。それでもとうとう何か所も刺された末、どうやら蜂の襲撃から逃れられたかと辺りを見回すと、そこは見覚えのないところで、周囲には大きな栗の実が一杯落ちていたそうだ。そこでおじいちゃんは、かつて経験したことがない不思議な光景を見たのである。
刺された跡に唾をつけながら栗拾いをしていたおじいちゃんは、斜面の雑草をバサバサと荒々しく踏み分けて三匹の茶色い小さな獣が竸うように走り下ってくるを見た。それらの獣はキイキイと喧ましく泣き叫びながら、物凄い勢いでおじいちゃんのそばを相次いで駆け抜けていった。一瞬の出来事だったので、おじいちゃんは「はて、狸がイタチでも追いかけているのかな?」と思ったそうだ。
ところが、いったん駆け去ったと思われた三匹の獣たちは、間もなく再び荒々しく駆け戻って来たと思うと、何を思ったか、そのうちの一匹が、なんとおじいちゃんの足もとにすり寄ってきたのだそうだ。
その時になって、おじいちゃんはそれが大きな野ウサギであることに気がついた。どうやらおじいちゃんの足もとにすり寄ってきたウサギを他の二匹のウサギがいじめているらしかった。可哀そうに、苛められているウサギはおじいちゃんの足もとでブルブルと震えながら、キイキイと甲高い声で鳴く。明らかにおじいちゃんに助けを求めたものらしい。
一般にはおとなしい動物の代表のように見られているウサギが、仲間同士で激しい喧嘩をするというのは如何にも珍しいことのように思えるが、その実、野ウサギは結構気が荒く、ウサギ同士でもよく喧嘩をする。そして、ウサギは鳴かないとされているにも関わらず、いざという時にはびっくりするほどの甲高い鳴き声を発する。
そばにすり寄ってきたものの、人間の怖さも知っている野ウサギは見るも哀れなほどオドオドしていたが、おじいちゃんは両手でアッという間にそのウサギを掴まえてしまった。抱きhげてみると、そのウサギはよほど激しく走り回ったと見え、心臓がピクピクと激しく鼓動を打っており、しばらくするとみるみる力が萎えていくようにぐったりしてしまった。あるいは、急におじいちゃんに掴まえられたので、驚きのあまりショック状態に陥ったのかもしれなかった。
珍しい野ウサギ同士の喧嘩を目にしたおじいちゃんは、助けを求めてきたこの野ウサギが愛しくなり、これを苛めているウサギを懲らしめてやろうと、逃げもしないでさらに苛めようとして近寄ってきたウサギに手に持った鎌をたたきつけたという。ところが鎌は見事にウサギの頭を直撃、そのウサギは一発でひっくり返ったそうだ。さすがに、その間にもう一匹はどこかへ逃げていってしまったが、おじいちゃんはこうして労せず二匹の野ウサギを手に入れたと言うわけだった。
野ウサギの肉は美味しくはなかったが、田舎ではこうしてたまに取れる野ウサギは大変なご馳走で、子供たちも何とかウサギを掴まえようとよく罠を仕掛けたものである。
野ウサギは寒根葛(かんねかずら)の葉が好きで、寒根葛が生い茂った山の斜面などにはよくウサギの巣があった。寒根葛はその芋根からクズがとれることから、その葉は「クズの葉」と呼ばれ、どこにも群生していた。
上ノ市の人々が「向こうへら」と呼んでいた川の向こう側の山には、現在は陸上自衛隊の戦車道路のために埋められてしまっている小迫(おさこ)という小さな谷があって、そこから小さな樵道を登っていくと、千人塚を経て「池ノ原」(いけのはる)という開けた山の上に出る。五月になると赤い花が咲くイケノハルツツジの原生地だが、当時はその花見時期には、もちろん遠くからくる人などなく、わずかに地元の人だけが知っている楽しみだった。
私の父は長い間、早稲田大学理工学部の教授をしていたから、戦争中は家族全員を田舎に疎開させ、自分だけが東京に居残って研究室に通った。その父は、田舎の山に群生するこのイケノハルツツジがことのほか好きで、帰省の折に何度かその根を掘り起こして東京の家に持ち帰ったが、どうしても根付かなかったらしく、いろいろな植木が生い茂っていた中野の家の庭にもこのイケノハルツツジだけは見なかった。
この池ノ原周辺の山の尾根は、北は千人塚から角埋山の麓、南は十釣の崖のすぐ下まで緩やかな起伏が続く草原が続いており、戦後はここに、どこからやって来たのか「開拓団」という人達が入り込んで、開墾したことがあった。
あたりの野山は、いくつもあった沢筋の斜面にこそ杉が植えられていたが、広い山の表面のうねうねと続く尾根は灌木と茅が生い茂る草原が続いており、自衛隊が来る以前は付近の住民が春は野イチゴやワラビやゼンマイ、秋には茸やアケビを採取するのに格好の場所だった。あの開拓団も、県か郡か、誰かの推奨でこの地に入植したのだろうが、水脈がないため、もともと農耕などに適した土地ではなかったこともあって、一時この高原の一部を耕して桑やサツマ芋など植えたりしていたが、結局は定住することができずにいつの間にかみんないなくなってしまった。
あちこちにクズの葉の寒根葛が生い茂っていたこの辺りの高原は、野生のウサギには食べ物が豊富で住みやすいところだったらしく、良く歩いていく先を急に茶色の野ウサギが横切ったりしたものである。なによりも野ウサギの天敵であるキツネが少なかったから存分に繁殖していたのだろう。
秋になると、この野ウサギをねらって村の子供たちはよく罠を仕掛けに山に入った。罠は細い針金を輪にして、野ウサギの通りそうなところに仕掛けておくというだけの至極簡単なものである。
もちろん野ウサギは賢く、実際には子供たちが仕掛けるそんな簡単な罠にかかったりはしないから大抵は骨折り損になるのだが、そんなことで子供たちは諦めたりはしなかった。
秋が来て稲穂が色づいてくると農家は忙しくなってくる。冬にそなえて薪づくりをする一方で、芋や小豆などの取り入れが始まるし、吊し柿づくりも始まる。
家の前の山の斜面には柿の木がたくさんあって、サイジョウ、コショウマル、フユガキ、シモガキ、ミカンガキなど様々な柿が実った。人気があったのは胡麻がいっぱいふいている小さい柿で、最近果物屋などでもてはやされるようになったフユガキ(富有柿)は、当時は大きな実がなる割には甘くないのであまり喜ばれなかった。ミカンガキは他の柿より遅く実るが、家の裏には川面に枝を張り出すようにミカンガキがあって、梅の実ほどの大きさの実が真っ赤に鈴なりになったものである。
吊し柿にするための渋柿の皮剥きは忍耐のいる仕事である。みんなで夜なべ仕事で皮を剥き、祖父が藁を使って綯(な)つた縄にTの字になった萼(がく)を差し込む。
渋柿を採るのは男達の仕事である。特に男の子がそれをやらされた。身軽な私は猿使いのサルのようにスルスルと高い木に登り、縄を着けた大きな笊(ざる)を枝に引っ掛けておいて、これに柿の実を採って入れていく。下から人に見られていると余計に身軽に、わざと枝の先の方まで登って見せた。家では以前におじいちゃんが柿の木の枯れた枝を踏み折って落ちたことがあったため、それ以来、柿の木に登るのは私の役割になっていた。
笊は子供が中にすっぽり入れるほどの大きさがあり、これが一杯になると縄を緩めながら下ろして下にいるマル子叔母ちゃんやお婆ちゃんに支え取ってもらい、これを家に運び込む。柿の実は、先っぼをVの宇型に割って小枝をは挟んだ長い竹竿をつかって採るのだが、その際、吊し柿にしやすいように、萼(がく)の直ぐ上の枝を挟んでぐるぐる回して捩じるように折り採ることが大事である。こうすれば、ちょうど採れた柿にはどれも見事なT字型の小枝の一部がついていることになるので、家に持ち帰って皮を剥いた時、柿の実を縄目に簡単に挟めるので作業が進めやすいからである。
実りのいい年には柿は夥しい量がとれたから、夜なべの柿剥きは大仕事だった。良く研いだ包丁を何本も用意しておき、みんなで雑談をしながら皮を剥くのだが、たくさん剥いているうちに、親指は柿の渋で真っ黒になり、包丁も切れ味が悪くなる。研いでいる暇はないので、あらかじめ用意しておいた別の包丁に取り替えて、さらに剥き続ける。渋柿ではあっても、稀にはゴマのふいた甘い実も混じっていることがあり、そんな甘柿にぶつかると、これは四つに割って、眠いのを我慢してじっと作業を見守り続けている子供達に分け与えられる。それは稀にではあるが、なにしろたくさんの実を剥くので、甘い柿はたびたび出てきて、しまいには食べられなくなるほどである。
私はラジオの連続放送劇やクイズ番組の「二十の扉」を聞きながら皆んなで柿をむく夜なべが楽しみだった。渋柿の実は青白いから、こうして剥かれた柿の実が藁縄に差し込まれて大きな笊に何杯も用意できた姿は見事である。これは明日の朝には蔵の壁面や縁側の軒下などにずらりと吊り下げられることになる。日差しに映える鮮やかな吊るし柿は秋の風物詩で、霜の降りるころになると、あちこちの白壁のある家や蔵にズラリと吊り下げられた柿のすだれが見られた。吊し柿は日に日に赤味を増して行き、二週間も経つと萎なえて小さくなり、一か月くらいですっかり干し柿らしくなる。
この時期に雨が続くと柿の乾きが進まずに、青カビが生えたり、柔らかいまま縄から抜け落ちたりしやすくなる。まだやっと渋味が抜けたばかりの吊し柿はぐにゃぐにゃと柔らかく、特に種の周囲のツルンツルンした甘みが美味しくて、私はよく、だれにも見付からないようにしながら内緒で失敬して食べた。
夜なべで柿剥きをした後には大量の皮が残るが、田舎ではこれも決して無駄にはしない。バイラと呼ばれる丸い大きな平らな笊の上に広げて、屋根の上などでよく乾かし、これを糠漬けの中に入れると甘みが出て旨味が増すので好評だった。柿の皮は火鉢で焼いて食べると美味しいが、私は納屋の屋根裏に積み上げた藁の中に隠れて遊びながら、よく甘くなったこの柿の皮をおやつに食べた。