目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第11章
八月号の原稿を校了に追い込み、印刷工場の校正室から解放されたのは夜明け前だった。その朝、ぼくは一番電車に乗って横浜に出た。石川台の駅舎を抜け、商店街を折れて、まだ眠りについている静寂が支配する坂道を上がっていくと、ぼくの胸はしめつけらればかりに痛むのだ。いつもそうだった。いつもこの通りを歩くとぼくの胸はきりきりと痛む。外人墓地の前を通り、公園のかたわらを抜けて、裏通りに入っていく。赤煉瓦の建物がみえる。するとぼくは踝を返して帰りたくなる。
この日もまたぼくは建物の前でためらった。しかしホールに一歩踏み入れると、もうあとは階段を上がっていく以外にない。部屋のドアの前に立つと、ぼくはさらに緊張している。だれもその部屋にいないのに、まったくおかしな現象だ。ぼくは勇気をだして鍵をそのドアの鍵穴に差し込み、かちゃりと錠をおろす。そしてドアをあける。
ぼくの予感したように居間の様子が変わっていた。あの男がこの部屋に踏み込んでいることは歴然としていた。この前きたとき、椅子の位置を変えたり、テーブルの上に雑誌をのせたり、冷蔵庫に缶ビールをならべたりとあちこちにこざかしい細工をしてきた。しかしそんな細工など必要なかった。あの男はこの部屋にしのびこみ、傍若無人にふるまった痕跡をあちこちに残している。彼はこの部屋で泊まっていったのかもしれなかった。
玄関ホールからのびた廊下をはさんで父親の書斎があり、その対面に宏子の部屋があった。その部屋に入ったとき、ぼくのなかに怒りがたちのぼってきた。宏子のベッドの脇にあるサイドテーブルの上に、バーボンと背の高いグラスがおかれてあった。それはぼくに見せるためにあの男が仕組んだのだ。ぼくを怒りで狂わせるために。いまなお宏子は自分のものだと宣言するために。このベッドの上でぼくたちは愛しあった。そのベッドの上に藤野は腰を落とし、もしかしたら彼女の下着にくるまって、バーボンをすすっていたのかもしれない。ふくれあがる猜疑と妄想で、ぼくは気が狂いかねないほどの怒りにとらわれた。
宏子はあのときぼくに言った。藤野からもう鍵を返してもらう。もうこの部屋に彼を入れないことにすると。それなのに藤野はまるで愛人の棲家にしのびこむように潜入している。宏子がひどく汚れてみえてきた。彼女はまだぼくの知らない秘密を宿している。彼女は依然として黒い神秘のなかに立っている。それはぼくに知られたくない過去をもっているからなのだ。
彼女からの手紙は三日とあけずにぼくのアパートに届く。しかしその日から彼女の手紙が読めなくなってしまった。彼女へ手紙を書き続けなければならなかった。しかしその日からもうひと文字も書けなくなってしまった。
次の週だった。めずらしく西川から電話があって、会いたいと言ってきた。そして翌日の午後、彼は都会生活社までやってきた。《バオバブ》に連れていくと、西川は目を伏せたまま、「相変わらず忙しいみたいだな」と言った。
「そうなんだ。貧乏ひまなしというやつだな」
宏子と恋に落ちてから彼とは二度ほど会ったが、彼は会うたびによそよそしくなった。それはなんだかぼくを非難しているように思えた。だからこの日もぼくは警戒したままだった。
「田島は元気でやっているみたいだね」
「うん」
「しかし、君たちがこんな風になるとは思わなかったよ」
「こんな風って」
「いや、ちょっとおれたちを驚かせる関係さ」
「驚かせる関係になって悪かったみたいだな」とぼくは敵意をむきだしにして言った。
「そういうことではないよ。ただちょっと驚き、困惑しただけさ」
「どうして君が困惑しなければならないんだ」
ぼくはすでに喧嘩ごしだった。そんなぼくに彼はおろおろした様子で、なにか言い訳でもするかのように、「藤野さんの研究室が同じフロァーにあるんだよ。だからしょっちゅう彼と顔をあわせるんだが、最近はちょっとやばいという雰囲気があるんだな。なにしろこういう状態をつくりだした源はおれにあるわけだからね」と言った。
「おかしいことを言うじゃないか。君になにが関係あると言うんだ」
「彼と田島宏子は婚約した関係だからね。それを引き裂くということになったということになる」
「君はなにもわかっていないんだな。彼女とその助教授の関係はもう切れていたんだ。彼はもう宏子の婚約者ではないんだよ」
「そうなのか」
「そうさ」
「その辺のことはおれにはわからないよ。わかろうとも思わない。しかしそうとも言ってられないんだ。実はおれが君に会いにきたのは、田島宏子のことなんだ」
ぼくの予感した通りだった。わざわざ都会生活社まで足を運んできたのはやっぱりそのことだったのだ。ぼくはいよいよ身構えてしまった。
「藤野さんが君に会いたいと言うんだよ。君といろいろと話したいことがあるらしい。そこでおれにその機会をつくってくれと言うわけなんだな」
「どうしておれが彼に会わなければならないんだ」
「その辺のことはおれにはわからないよ。しかしやっぱり一度会って互いにはっきりさせておいたほうがいいんじゃないかね。おれはそう思うがね」
西川はやっぱり目を伏せたまま、こんな役目はこりごりだという気配をただよわせて言った。
そんな彼を気の毒に思ったが、ぼくのなかに怒りがこみあげてくるのはどうしょうもなかった。なんという単細胞なお節介野郎だと西川をののしり、いったい藤野と会ってなにを話すというのだ、宏子はぼくのものであり、彼はもう指一本触れることはできない、藤野がすべきことはただぼくたちの前から黙って消え去ることなのだ、と内心で毒づいていた。そして藤野が宏子の部屋でバーボンをすすっている光景がよぎってきて、思わずなんの関係もない西川に怒りと敵意の目をむけるのだった。
誠実な西川はなんとか話しをまとめようとするのだが、少しも心を開かぬぼくにあきらめたように、「なんでも今年の夏に、藤野さんもまたロンドンにいくらしいんだ。そのためにも会いたいと言うのだがね」
それを聞いたとき、ぼくのなかでむらむらと敵意が燃え上がり、突然藤野に会ってやろうと思った。彼に言わなければならないことがぼくにもあった。もう宏子はぼくのものであり、あの部屋もまたぼくのものであり、勝手に出入りしては困る、と。そして止どめの一撃を浴びせるように、ロンドンにいっても彼女に会えはしない。ぼくが彼女に会うなと命ずるからだ。だからロンドンにいくなどという無駄なことはやめたほうがいいと言ってやるのだ。ぼくは藤野を完膚なきまでに打ち砕いてやろうという敵意と憎悪に燃え立ったのだ。
早くも翌日、西川は藤野と会う場所を伝えてきた。一緒にいってもいいがと彼は言ったが、これ以上かかわりたくないという気配が濃厚だった。だからぼくは一人でいけるさと言ってやった。
そこは大学近くの裏通りにある小さなスタンドバーだった。明るい表通りからその店に入っていくと、静寂をつつみこんだ薄暗い空間はひどく神秘めいていた。男がたった一人カウンターに座って、冷たい刺すような目をむけていた。彼の前にバーボンがおいてある。その赤いラベルが血のように見えた。
「やあ、よくきてくれたね。まあこちらに座りたまえよ」と藤野は言った。
昼からバーのカウンターで酒を飲んでいる彼は、なにか崩れたバーテンダーのようにみえた。この男はいつも複雑な影を放ってぼくを不安にさせるのだ。
カウンターがカーブを描いたところの椅子に、ぼくは藤野と距離をおいて座った。すると彼はグラスを、ぼくのほうにほうり投げるようにさあっとカウンターの上をすべらせてきた。驚いたことにそのグラスはぼくの前でぴたりと止まったのだ。ボトルもまたそんな乱暴なやり方でさあっとすべらせてくると、「勝手にやってくれよ」と言った。
「ええ」とぼくは言った。
「君とは一度きっちりと話しておかねばならないと思っていた」
「そうですね」とぼくはこたえたがひどく緊張しているのがわかる。それはそうだった。ぼくはこの男と決闘する覚悟できたのだ。
「君は宏子からどう聞いているかしれないが、宏子はおれの婚約者なんだ」
彼はいきなりストレートを叩きこんできた。あまりの唐突さにどうこたえていいものかとたじろいでいると、「君は田島修造を知っているかね?」と訊いてきた。
「もちろん」
「なかなかの才能をもっていた男で、彼が二十七のとき、大航海時代の思想という本を書いて、その世界ではちょっと注目されていた新進の歴史学者だった。ところが三十のときに忽然と大学を去り、日本から逃げ出していったんだ。なぜだかわかるかね?」
「ええ。そのことも宏子から聞いてますよ」
とぼくは藤野に、なにも与えまい、なにも失うまいとして言った。
「そうか。聞いているのか」
「ええ」
「滑稽なことに、講義の真最中に泡を吹いてぶっ倒れてしまったこともか」
「……………………」
「彼の講義はなかなか人気があった。大勢の学生が彼の講義につめかける。その大教室で、みんなが見守るなかで、ぶっ倒れてしまったわけだよ。恐れていたことが不意に襲ってきたんだな。彼はずうっとその予感で怯えていたと思うね。その予感が、とうとう大発作となって襲いかかってきたんだ。それは彼がちょうど三十のときだった」
藤野は暗い目をまばたきもせずにぼくにむけていた。そして、ゆっくりと、なにかぼくのなかに鑿でも打ちこむように話すのだ。
「彼の父親がまたそうだったんだ。彼の父親もまた三十のときに崩壊している。それだけではない。その父親の祖母がまた三十半ばで発狂している。気の毒なことに宏子の一族には、分裂病の血が色濃く流れているんだ。修造が大学を去り、ヨーロッパに渡っていったのは、自分のなかに流れるそういう血から逃げ出そうというところがあったんだろうな。もちろんそれだけではない。彼の年来のテーマであったヨーロッパ、ルネサンスのヨーロッパ、大航海時代の英雄たちの現場に身を置きたいという気持ちもあっただろうよ。崩壊の日がくるわけだからね。その日がもう目前に迫ってきている。それまでに彼の仕事と思想を結実させておかねばならないという思いもあったろうよ」
藤野はこの暗い言葉を、ぼくのなかに打ちこむためにこの空間を借りきったかのようだった。たしかになにかがぼくのなかに打ちこまれていく。それこそ彼の罠に落ちることだった。そうはさせまいとぼくはとくとくとバーボンをグラスに注ぐと、ぐいとあおった。
「大学を去らなければならなくなったもう一つの原因は恋愛だった。いわば彼の恩師であった教授の妻とねんごろになってしまうわけだね。これはちょっとしたスキャンダルになったらしいな。狭い大学社会は一時この話でもちきりだったろうよ。スキャンダルというやつは社会を活気づけるからな。この若い人妻、すなわち宏子の母親である葉子をつれて、ヨーロッパ放浪の旅にでるわけだよ。この女はとてもやり手だった。いつでも女は現実的だが、彼女もまたなかなかの商人だったんだな。ロンドンに貿易商会をつくった。それがあたってパリにも支店をもった。そして横浜にも支店をもった。それを契機に田島一家は日本にもどってきたわけだ。実に十八年ぶりの帰還だったんだ」
藤野が大袈裟な表現でくるんで話すことは、みんな知っていることだった。しかし彼の口から放たれると、はじめて聞くかのようにぼくの胸に突き刺さってくる。
「彼が日本にもどってきたのは、それまで書きためていた膨大なコロンブス論を世に出すためだった。しかしその仕事をはじめかけたときに、葉子さんが癌に倒れてしまうわけだよ。彼の心の支え、生活の支え、彼のすべてを支えていた妻を失った修造の精神は、急激に滅んで崩壊へと走っていく。忘れるわけにはいかない。あれはひどく風が吹き荒れていた日だった。彼の死体が茅ケ崎の海岸に打ち上げられたのは。修造は冬の海に身を投じてしまったんだ」
なにかがぼくの内部から崩れていくかのようだった。この男が次第に怖くなっていった。
「彼が海に身を投じる二日前だった。おれは彼の部屋に呼ばれたわけだよ。葉子さんが倒れてから、おれは田島商会を撤収する仕事をしていたのだ。何度もロンドンやパリに飛んだりしてね。田島商会はちょっとした国際企業になっていたからな。そのときもその話だと思ったが、どうもいつもと様子が違う。土地の権利書やら株券やら預金証書をばさりと机の上に投げ出し、田島家の全財産がここにあるが、もしお前が宏子を守ってくれるなら、これを全部お前の手にゆだねてもいいと言ったんだよ。守るということは宏子と結婚しろと言うことですかとたずねると、修造はうなずいて、かたわらにおいてあった黒いケースを黙ってテーブルの上においた。そのなかに何が入っていたと思うかね」
「わかりませんよ」
「拳銃だよ。第二次大戦中にイギリス海軍が使っていた拳銃だ。そいつを修造はロンドンからこっそりと日本に運びこんでいたんだな。彼は葉子さんによく言ったそうだよ。もしおれの精神が破綻したときには、かまわずその拳銃でおれの脳をぶっとばしてくれって。修造さんはそのとき、その拳銃をおれの手にゆだねたのだ。なぜだかわかるかね」
「………………………」
「宏子をたのむと言ったのだ。こいつで宏子を守ってくれと言ったのだ」
それはなにか手にした合口から、さあっと白い刃が引き抜かれ、ぼくの喉もとに突きつけてきたといったような感じだった。ぼくは恐怖にとらわれていた。
「この拳銃がおれを支えてきた。こいつに守られておれは今日まで生きてきた。葉子がいつもこいつでおれを守ってきたからだ。これをお前に預けるのは、葉子がそうしたように、今度はお前が宏子を守って欲しいからなんだ。もし宏子に破綻の兆しがあったときには、容赦なく彼女の頭に止どめの一撃を射ちこむのだと彼は言ったのだ」
「ばかばかしい話だ」
「ばかばかしい?」
「ええ。なにやら十九世紀の小説のようだ」
「君はなにもわかっていないからだ」
「あなたにはわかっているんですか、それがばかばかしい話だってことが?」
「彼女はなにかにおびえていなかったかね」
「いいえ」
「彼女は三十という年を恐れていなかったかね」
「いいえ」
とぼくはこの男に抵抗するためにそう言った。 すると藤野はフンと鼻でせせら笑って、
「君にはなにもわかっていないわけだな。所詮、君には宏子という女をとらえきれないのだ。彼女の一族はいずれも三十という年で崩壊している。あるいは崩壊の亀裂がはじまっている。そのことに彼女はおびえないわけにはいかないのだ」
「そんなことをあなたは本気で信じているんですか。最近の大学の先生の知性というのはその程度なんですかね。分裂病が遺伝するなどという学説は、とうの昔に追放されたはずですよ」
「人間には科学のメスをいれることができない領域があるんだ。未知なる領域がね。宏子だってある日、突然崩壊の日がやってこないともかぎらないんだ」
「そのとき、あなたの手にしたその拳銃が、火を吹くというわけですか」
「そういうこともあるかもしれないさ」
「それは殺人じゃないですか」
「彼女を愛するということはそういうことさ」
「正気の沙汰とは思えませんね」
「精神分裂というのは精神の一つの極致なんだよ。ところが現代の医学は薬と電気でズタズタにして廃人にしてしまうわけだ。一つの精神の結晶をこれでもかと打ち砕いてしまうんだな。だから廃人にされる前に、人間の高貴さを守ろうというわけだよ」
「高貴さを守るということは、あなたの手で射殺するということですか」
「そういうことだってあるということさ」
「あなたに彼女を殺す理由なんてどこにもありませんよ」
「おれには許されるのだ。おれの宏子だから。おれたちはいつも一つなのだ。どんなに離れていようとも、どこにいようとも、おれたちは一つなのだ。おれには彼女のすべてがわかっている。なにに苦しみ、なにを望み、どこにむかっているかがね。おれたちはいつでも一つだからだ。言っておくが、残念ながら君には宏子のなかに入っていくことはできないんだよ」
「勝手にそう思えばいいでしょう。想像することも、嫉妬で狂うことも自由ですから」
「彼女にだまされてはいけないぜ。あの女は悪魔的なところがあって、言い寄ってくる男を甘い言葉で巧みに誘いこむ。しかし飽きるのもまたはやいんだ。それだけのことなんだよ。賢明な君のことだから、遠からずそのことに気づくだろうがね」
「宏子があなたから遠ざかっていった理由がわかりましたよ。あなたは嫉妬で狂いかけているんだ」
「彼女は浮気ものでだらしない女だ。君は彼女のもっともだらしないところに溺れているんだよ」
「そんなことはありませんよ。彼女はいつだって真剣だし、清潔ですよ」
「フン、清潔だって? 清潔とはどういうことだね」
「だらしなくないということですよ」
「彼女がおれと寝たとき、もちろん処女ではなかった」
ぼくはこのときこの男を殺したいと思った。
「彼女はおれと寝たあとも、三人の男と寝た」
「いったいあなたはなにを言いたいんですか。なにを話すためにここにぼくを呼んだんですか」
「君に宏子のことを教えてやろうと思った。それだけのことだよ」
「余計なお世話だ。ぼくもあなたに言っておきたいことがある。宏子はもうあなたのものではない。あなたは彼女には指一本だってふれられない。彼女はもうあなたのものではないんだ」
藤野の目を見据えてぼくは言い放った。藤野はまたかすかに笑った。複雑な影を縫いこんだ複雑なその笑いには、なにかただならぬものが漂っている。この男はいま絶望と嫉妬と憎悪で狂いかけているのではないかと思えたほどだった。ぼくはふらふらと出口にむかった。すると藤野が追いかけるように言った。
「そうだ、実藤君。大事なことを言うのを忘れていたよ」
振り返ったぼくに、藤野はそれまでの重い沈んだ調子ではなく、ちょっとはしゃぐような陽気さで言った。「来月ロンドンいくんだよ。三週間ほど彼女のところに滞在するつもりだ。デヴァンシャーストリートにあるその家は、かつて田島一家がロンドンで派手に稼いでいたころ手に入れたなかなかな洒落て落着いた家だよ。そいつを手離さないでおいたのは、いずれおれたちはそこに定住するつもりでいたからだがね。来年、おれもロンドン大学に留学することが内定しているがその下準備ということもある。そいつは一年という期間だがね。しかしその留学を契機に、そろそろおれもロンドンに腰をおろして本格的な著作活動に入ろうとも思っているんだ」
銃弾を何発も撃ちこまれたような衝撃だった。しかもその衝撃は時間とともにぼくの内部にじわじわと広がっていった。藤野の暗い目とともにあの低く重く響く声が、ぼくのなかにぺたりと貼りついていて、振り払っても振り払ってもその声はからみついてきた。それは嫉妬に苦しむ藤野が仕組んだ罠なのだとぼくは思った。ぼくを陥れるために巧妙に仕組まれた策路なのだと。しかしまたそのとき藤野の語ったことは、なにかそれまでぼくが知らなかった宏子の未知なる部分が現れてきたようにも思えた。宏子に入っていけばいくほど見えないものがあった。なにかが隠されているように思えた。その隠されたものが、いま藤野によって暴露されたのではないかと。
相変わらず宏子からの手紙は三日とおかずに舞いこんできた。その夜もアパートにもどると彼女の手紙が届いていた。しかしその夜、ぼくはその手紙を千々に引き裂いてしまった。そればかりか彼女の夥しい手紙をダストボックスに投げこむと、それをかかえて外に飛び出し、アパートの裏庭で赤々と燃やしてしまった。燃え上がった火が、手紙の束を灰にしてゆらゆらと消えかかると、これで宏子を失ってしまったという思いで呆然となった。宏子を見失ってしまったのだ。ぼくのなかに立っていた彼女が、いま遠く離れたその距離のように見えなくなってしまったのだ。それこそ藤野のたくらんだ罠にまんまと嵌められたと思った。しかしそのときのぼくには、その罠を通してしか宏子を見ることができなくなってしまった。
藤野もまた今年の夏、ロンドンにいくと言った。まるで示し合せたようではないか。そういう筋書きがずうっと昔から書かれていたのか。そうかもしれない。それならば宏子があれほどロンドンにこだわり、ひたすらロンドンをめざした理由もわかる。彼らはそこで愛の巣をつくるのだ。ぼくはまんまとひっかかった。ぼくは宏子にもて遊ばれたのだ。そういうことなのだ。ぼくのもう一つ理性がそれはばかばかしい妄想だと言った。しかしもう半分の理性はこれこそ真実なのだと言った。ぼくの理性は半分に引き裂かれているのだ。
またもや世界は荒涼としていった。食欲がなくなり、無表情になり、すべてに意欲を失って、一日一日が重く苦しく過ぎていく。またもやぼくに荒廃の日々が訪れた。こうなったときぼくはいつも全部を叩き壊そうとする。宏子を打ち倒し、わが身をこなごなに打ち砕きたいとはげしく思うのだった。
その夜、ぶらぶらと亜希子のアトリエを訪ねると、木綿のシャッとワークパンツをはいた亜希子が姿を見せた。
「どうしたわけ?」と彼女はたずねた。ぼくの様子がやっぱり普通ではなかったのだろう。どこか異常だったにちがいない。
「あなたに会いたくなって」
「あらあら、どういうことかしら」と彼女はちょっとからかうような調子で言った。ぼくは自分の内部をのぞかれまいとするかのようにあわてて言った。
「とても会いたくなるってことがあるじゃないですか。追い返されると思ったけど」
「そうよ。売っ子作家ですからね」
彼女はぼくをアトリエに入れると、ボトルが何本も並んでいるワゴンを押してきてぼくの前に置いた。ぼくはちびちびとウイスキーをすすりながら、高い天井まで届くような長大なキャンバスに立ち向かっている亜希子を眺めていた。
そのときのぼくの目はぎらぎらしていたにちがいない。脚立の上に乗ったり降りたりしながら描いている亜希子の脚や胸や尻を、ぎらぎらした欲望の目で眺めていたのだ。なかなかいい女だった。魅力のある女だった。ぼくのあこがれの女だった。この女ならばすべてを打ち砕いてくれるだろう。宏子だって打ち消してくれるのだ。もう宏子への忠誠などどうでもよかった。むしろそれはぼくを亡ぼすもの、ぼくを苦しめるものだった。宏子から伸ばされたその鎖はもう断ち切ってしまったほうがいいのだ。
そんなぼくの目が気になるのか、亜希子は制作に打ちこめないようだった。脚立の上でにやりと笑ったり、おどけたしぐさをしたり、意味もないことを喋りかけてきたりした。それはなぜか情事の夜をかきたてる愛撫のようだった。笑いも、お喋りも、沈黙も、官能をかきたてる愛撫なのだ。ぼくは次第に確信していった。彼女のほうからもぎらぎらとした性の波が送り出されていることを。
「ねえ、ちょっと私にもお酒をもってきてくれないかしら」
グラスに氷をいれてとくとくウイスキーを注ぐと、脚立の上に乗っている彼女に手渡した。彼女はありがとうと言った。ぼくはちょっと彼女の脚に手をかけ、
「あなたの脚をずうっと見ていたんだ」
「大根足だって思ったわけね」
「そうじゃなくて、絵というものは足で描くものだってことを発見したんですよ。なるほど手にしている筆は足から伸びているんですからね。あなたの脚っていろんな表情をするんだ」
「ずいぶん奇妙な発見をするものなのね」
亜希子の腰に腕をまわすと、彼女はぼくの肩に手をかけて、どちらからともなく自然にからだを求めあっていた。たわむれの口づけは次第に熱くなっていき、ぼくの手はしきりに木綿のシャツの下に入ろうともがいていた。
「ねえ、ドライブしましょう。ここじゃいやなの」
ジャガーはあっという間に高速に乗り、蛇のようにくねくねとのびた首都高速を突っ走り、高井戸を抜け中央高速に入っていった。
「よく一人でドライブするのよ。しらじらと明けていく朝を駆け抜けていくの」
「一人で?」
「もちろんよ。ドライブって一人でするものなのよ」
「そうかな」とぼくは言った。亜希子にパトロンがいるという噂が、いままで彼女に近づくことをためらわせていたのだ。そのことをたしかめてみたいと思ったのだが、それはやはり怖くてきけなかった。
「絵を描いたあとって、いろんなものが体のなかに残っているからなのか、なかなか眠れないときがあるのよ。そういうときになにもかもふっ切ってしまうためによくドライブに出るのよ」
彼女はアクセルをさらに踏み込む。百三十、百四十キロと速度を上げて黒い夜を切り裂いていく。前を走る車のテールランプがぐんぐん近づいてくると、まるで獲物に襲いかかるように追いつき追い抜いていく。小気味よいエンジンがぼくらの官能をかきたてるように小さくうなっている。
相模湖のインターで高速を降りると、湖を見下す位置に立っているホテルに車をすべりこませた。闇につつまれた道路を少しも迷わずにそのホテルにたどりついたのは、その道をよく知っているからのように思われた。
部屋に入るともうぼくたちは欲情のとりこだった。彼女の肉体は新鮮だった。彼女のすべてが新鮮だった。ぼくたちを隔てているものをすべて脱ぎ捨てると、新鮮な手が唇がせわしく苦しげに互いのからだをはいずりまわっていく。それはもう一つの男と女の会話だった。この会話は単純だった。互いの性をかきたてればいいのだ。ぼくは荒々しく彼女のなかに入っていった。鬱積したやり場のない怒りの性をさらに硬くして、硬い高まりのなかで彼女のなかに放出した。砂のようにざらざらとした白い虚無がさあっと走ってきた。
取り残された亜希子の手が、ゆっくりと執拗にぼくのからだの上を這っていく。まるで疲労した不毛の畑を堀りおこしていくかのようだった。荒れ地をうるおすようにキスの雨を降らせ性をよみがえらせていく。それは芸術家の手、芸術家の口づけだった。亜希子はいま一枚の絵を仕上げるようにぼくの欲情をかきたてているのだ。
「すてきだな。君は絵を描いているみたいだ」とぼくはうっとりとした声で言った。
「そうなの。あなたはざらざらしたキャンバスなの」
「君の手は絵筆みたいだ」
「手は足のほうから伸ばされているってわけでしょう。足のほうからゆっくりゆっくりと新しい力が立ちのぼってくるわけね」
熱い始源の炎をかきたてていく彼女の性にくらべたら、ぼくの性は単純で幼稚だった。彼女はぼくの単純な性をぎりぎりまで高め、ぎりぎりまで硬くしていく。その硬直し充血したものが、どっと砕け散ろうとする直前に、愛撫の手をさあっと巧みに引いていくのだ。そしてまたゆっくりと肉体の底から赤い火をたきつけていく。一つの絵を描いていくように、あるいは一つの劇をつくるように緊張と歓喜と苦痛をおりこんで燃え立たせていくのだ。
新しい絶頂がまたやってきた。砕け散る波頭のように性が、その最も力をためこんだなかでどっと崩れ去っていくのだ。今度は彼女も一緒だった。彼女もその高みのなかで歓喜の声をあげた。
亜希子はぼくのこざかしい目的の餌食になるような女ではなかった。もしかしたら宏子よりももっと深いところで、ぼくのすべてが揺るがされていくのかもしれなかった。そんな予感が鋭い痛みとなって突き刺さってきたのは、朝の別れのときだった。
「こんなところで放り出していいの」
そこは新宿の高層ビルの真っ只中だった。朝がもう夜をひきはがしていた。
「いいんだ。ちょっと歩いてみたいんだ」
通りに人影はない。まだ六時前なのだ。車を降りるとぐるりとまわって彼女の髪のなかに手をいれた。
「なんだか夢をみていたみたいだ」
「どうして?」
「あこがれの人を一晩中抱いていたなんて」
「夢じゃなかったのよ」
亜希子は車のなかから両腕をぼくの首にまきつけると、ぼくの頬に頬をこすりつけてきた。
「なんてざらざらしたひげなの。ハートのなかまでひりひりするわ」
これで宏子から伸ばされた鎖は断ち切れるかもしれなかった。すると宏子の悲しみに曇った顔がふと鋭い痛みとともによぎってきた。
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