能登は祭りの国 藤平朝雄
「キリコ祭り」とは?
能登は「祭りの国」である。人々の生活はいつも神仏や祖霊、自然と共にあり、時代が移り生活様式が変わっても、祭りは今も住民の心の支えになっている。能登の祭りは多種多彩だが、中でも「キリコ祭り」と称される灯籠神事は、能登の祭りの白眉である。
「キリコ祭り」の歴史は江戸時代に遡る。時とともに、海、山を伝って七尾市と志賀町以北の能登一円に広く伝播した。その数は現在でもおよそ200あるといわれている。加えて、開催される期間も7月から10月と長期にまたがっており、この時期、能登を旅すれば必ずキリコ祭りに巡り会えるといっても過言ではない。
「キリコ(切籠)」とは、「切子灯籠(きりことうろう)」の略称で、地域によっては「ホートー(奉燈)」、「オアカシ(お明かし)」とも呼ばれる。キリコは神輿の足元を照らす御神燈として担ぎ出され、大きいものでは重さ2t、高さ15mにもなる。また、担がずに押し曳きするキリコでは、重さ4tに及ぶものもある。
キリコ祭りの魅力
祭りのメインタイムは、夜。キリコに灯りがともされると、氏子たちが一斉にキリコを担ぎ出し、町内を勇壮に練り回る。祭りの規模や趣向は、地域によってさまざまだ。文字通り神輿やキリコが暴れ回る能登町の「あばれ祭」や、100人もの男たちが乱舞競演を繰り広げる七尾市の「石崎奉燈祭」、華麗な漆塗りのキリコが出御する輪島市の「輪島大祭」は、規模も壮大でエネルギッシュ。大輪の花火が夜空を焦がす中、キリコを海中に担ぎ入れる珠洲市の「宝立七夕キリコまつり」も華やかだ。このほか、女性が中心となってキリコを担ぐ志賀町の「西海祭り」、青空の下、海中でキリコが豪快に暴れ回る穴水町の「沖波大漁祭り」など、バラエティーに富んでおり、見るものを惹きつけてやまない。
また、キリコそのものの魅力も語らずにはいられない。キリコは能登固有の意匠をもつ、華麗な風流灯籠だ。総輪島塗で金箔や彫刻を施した豪華なキリコ、畳12枚分の大きさの屋根を持つ巨大なキリコ、袖型や雲型の形状をもつ「袖キリコ」、キリコに人形を飾り付けた「人形キリコ」など、大きさや華やかさを競いながら地区ごとに独自の進化を遂げてきた。
さらに、キリコは祭礼の賑わい創出には欠かせない多彩なエンターテイナーでもある。神輿と共に巡行し、笛・太鼓・鉦による音曲隊として賑やかに囃し立てる。お囃子に合わせさまざまな動きをみせるキリコは、能登の祭りをいやが上にも盛り上げる千両役者と言えるだろう。
キリコ祭りには、「ヨバレ」と呼ばれる祭りごっつぉ(御馳走)の習俗がある。親類縁者や友人・知人など祭りに参加する者を座敷に上げ、五穀豊穣や大漁への感謝と共に、地元の食材や酒を振る舞う。地域コミュニティに大きな役割を担ってきたヨバレは、神人共食のハレの食祭でもあり、いわば「おもてなし」の原形をなすものだ。
キリコ祭りは、すべての地域住民が参加する、年に一度の大パフォーマンスであり、その奥義は「奉る」「待つ」ではないか。大いなる神に灯明を「奉る」こと、また、ハレの日に向けて精進潔斎して「待つ」ことに、先人から受け継がれた深い知恵をみる。待つことでエネルギーを蓄え、年に一度の祭りの日にそれを爆発させれば、否応にも祭りは熱気を帯び、地元で働く者、都会に出た者、すべての者が祭りを通じて一体となる。こうした祭りの熱気に共鳴したとき、観衆もキリコ祭りの貴重な構成要素となるのである。
キリコ― 構造と意匠からの考察 熊澤栄二
見る人の目線を考慮して制作
キリコの高さは、奉灯(胴体部分)の枠の大きさが基本となる。この部分は、広くは「コジョウ」と呼ばれるが、珠洲市の三崎・大谷辺りでは「オオジョウ」、寺家から鵜飼にかけては「ナカフク」、正院・蛸島では「ナカドリ」、飯田では「ガクフク」など、地域によって呼び名が異なる。「コジョウ」と「オオジョウ」をあわせ「ジョウ」とも呼ばれるが、これが「畳」を意味すれば、「古式のキリコは一畳=6尺×3尺(1.8m×0.9m)が基本」との高山哲典氏(珠洲市・羽黒神社宮司)の説もうなずける。
大正期以降、キリコも巨大化の傾向を辿るが、地域によって「ノッポ型」、「ズングリ型」に分かれる。キリコの制作には大工が当たることもあるが、集落内の建具職人などが制作することも多い。寺家の大キリコを制作した菊谷正好氏は、キリコが実際に立った時のバランスを重視したと語る。また、キリコの正面には大書や浮き字の紋、背面には観音菩薩、大黒天などの神仏のほか、義経伝説に擬えた勇壮な武者絵、「アネゴ」と呼ばれる美人画などが描かれるのが一般的だが、近年ではアニメ・キャラクターのキリコ絵も多くなった。キリコ絵師でもある成之坊良輔氏は、「人の目の高さから眺めた時の構図の歪みと色の輝きを想定して描くため、独自の技術と経験を要する」と説く。
細部へのこだわりと工夫
キリコ上部から意匠の特徴を見ると、屋根は切妻の形式で地板は化粧板とし、妻が合わさる部分には「懸魚(けぎょ)」と呼ばれる飾り板、棟には「鳥衾(とりぶすま)」と呼ばれる丸瓦を付するものがある。寺社建築の意匠ではあるが、どちらも火除けの意味がある。
屋根の下の奉灯最上部の飾りは、地域によって御幣、榊、注連縄、酒樽と異なるが、能登町には旭日旗を飾る集落もある。また、キリコを担ぐ地域では、奉灯下部の高欄(欄干)に榊を立て、神籬(ひもろぎ、神様を迎えるための依代)とする場合もある。加えて、奉灯上部を提灯やボンボリで照らすのも、「キリコが派手に進化した頃、屋根裏の鏡板に施した金箔や龍の彫り物の装飾を光で浮き上がらせるのが起こり」との古老の話も紹介しておきたい。
奉灯下部の高欄は、和様の組高欄か擬宝珠(ぎぼし)高欄のいずれかの様式とし、金具で装飾を施すものも多い。コジョウを支える四本柱をつなぐ桟などの横架材は、貫(ぬき)の構造とし、激しく揺れるキリコの構造的な堅牢さを確保している。
キリコは強靭さを要求されるため、主要材にはアテ(能登ヒバ)を、力のかかる部分には樫が使われる。アテはヒノキに似ているが、繊維密度が高く重量が嵩む。塗料は、近年ではカシュー塗料も増えたが、珠洲市の正院・蛸島以北では、材の継ぎ目を消すため本漆とするものが多く、ケヤキの彫り物などが加わるとその重さは数トンに及ぶ。
《珠洲の海辺の町で聞く》
能登独自のもてなし文化「ヨバレ」
能登の女たちの腕の見せ場
キリコ祭りでは「ヨバレ」という招待風習があり、各家庭で親戚や知人、仕事でお世話になっている人などを招いて、この日のために特別に用意した祭り料理「ごっつぉ(ご馳走)」でもてなします。
近年は仕出しも増えてきましたが、本来、自宅ですべての料理をつくります。準備は1年をかけて食材を集めるところから始まります。「春、山菜採りに行くと、ヨバレ用にと一所懸命採って、カゴいっぱいになるがや」。楽しそうに話すのは、珠洲市馬緤町在住の中平よう子さんと国永一子さん。ゼンマイやワラビなどは多めに採り保存しておくなど、ハレの日を支える意気込みが伝わってきます。
「ふだんから、おいしい料理に出会うと、『これ、何つこうたん?』というて、材料やつくり方を聞いてみるがや」と研究心も旺盛です。
地域ごとに特色がある「ごっつぉ」
ごっつぉは、能登の豊かな海山野りです。珠洲市三崎町などのようにイイダコの煮物を出す地域もあり、能登町柳田など内陸部では、かつてはウグイやアユなどの川魚のなれずしが必ず出されたといいます。
女性たちは、祭りの数日前から乾物を戻すなどの準備に取りかかり、当日は朝早くから調理を始めて夕方までに仕度を整えます。「家でつくるさかい、女たちは総出や。ほんなこって(このようにして)、ヨバレのごっつぉが家々や集落で伝えられてきたんや」。
また、このときばかりは無礼講が許されます。酒もふるまわれ、若い衆たちは酒を飲んで勢いをつけてから、キリコを担ぎに出かけます。
ヨバレは、能登一円で受け継がれてきた独自のもてなしの文化。膳を一緒に囲むことで、絆を確認し、親睦を深める大切な場です。
漁師町の心意気、力強く担ぐ豪奢で華麗なキリコ
白塗りに派手な衣装で担ぐ
県内有数の漁港として知られる珠洲市蛸島町。高倉彦神社の秋祭りで担がれるキリコはまるで動く芸術品。見事な彫り物で装飾され、金箔をふんだんに使った総漆塗りで、能登のキリコの中でも飛び抜けて美しいといわれています。また、担ぎ手が神勅の猿を模して顔を白塗りにし、「ドテラ」と呼ばれる派手な衣装と長い前掛けをつけた姿も独特です。
祭りの初日は、昼の巡行の後、各家で「ヨバレ」の席が設けられ、親類や知人が一緒に料理の膳を囲むのが習わし。夜9時を回ると、キリコが集まり、夜が更けるまで、再び町内を練りまわります。
江戸文化の華「早船狂言」
2日目は、家の前の道路を塩で浄め、太鼓を載せた山車の「太鼓山」やキリコとともに神輿が渡御します。夜、神社の神楽殿で演じられる「早船狂言」も見逃せません。
江戸時代中期から漁業や交易で栄えた蛸島では、伝わってきた流行の歌舞伎や歌曲を、古くからの早船行事(朝廷からの勅使の送迎のため早船を出した)に取り入れて、独自の狂言が生み出されました。この「早船狂言」では、新成人を迎える男子3名が、芸者に惚れ込み一向に船を出さない船頭と出航を勧める水夫の掛け合いを軽妙に演じます。
狂言が終わるとキリコが乱舞。威勢よく担ぎ上げ、上下させながら練り回る姿は豪快で、漁師町の心意気があふれます。
日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」 活性化協議会