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三百年かけて創造せよという思想 高尾五郎
私の過去を振り返れば、妄想の欠片と敗北と挫折の残骸ばかりで、いまでも敗北の一つ一つが夢のなかにあらわれうなされる。どこまでいっても敗北と挫折の連続だ。しかしこれが私だった。これが私という人間の実像であり、どうあがいてもこの実像から逃げられない。それならばこの敗北と挫折の人生を、どこまでも貫くことだ。この敗北と挫折の人生を完璧に果たすことによって私は私になる。これ以外の道はない。こんな思想を確立していったのは、もう一つの思想が私のなかに育ち、その思想が裏打ちしてくれたからだった。三百年生きる、三百年生きなければならない、三百年かけて創造性せよ、三百年という月日をかければ、君の放つ言葉や歌は世界に広がっていくという思想である。私のような力のない人間には、この思想は生命のエネルギーとなって流れ込んでくる。
私が影響を受けた人々は、ことごとくがこの思想の体現者たちだった。例えばゴッホがそうだった。ゴッホの絵を見るたびに、弟テオに宛てた膨大な手紙を読むたびに、彼の思想が私のなかに流れ込んでくる。彼の最後の手紙はこうだった。
「‥‥なぜならぼくらはそこまで来ているのだし、それこそいくらかでも発作の起こる瞬間にはぼくが是非きみいっておく必要があると思う、少くとも一番大切なことだからだ。死んだ芸術家の絵を扱う画商と生きた芸術家の画を扱う画商の間にこんなにも理不尽なちがいがあるのだから。
とまれぼくの絵に対してぼくは命をかけ、ぼくの理性はそのために半ば壊れてしまった──それでもよい──しかしきみはぼくが知る限り、そこいらの画商ではない、きみは現実に人間に対する愛をもって行動し、その道を歩こうとしているとぼくは思うが、しかしきみはどうしようというのか?」
この最後の手紙はさまざまな読まれ方をしているが、私はいまこのくだりをこう読んでいるのだ。弟テオとともにはじめた世界を転覆させるためのプロジェクトづくりも、すでに十数年の月日が過ぎ去っていった。しかし依然として光の出口がみえてこない。それどころかプロジェクトは危機に瀕している。耳を切り落としてしまうばかりの幻覚と幻聴が周期的に襲いかかってくるのだ。崩壊の日が刻々と迫っているのが全身で感じられる。こんなおれにテオは金を送ってくる。テオに子供が生れた。テオはその生活を支えるに手一杯なのに、いつまでおれは彼に金を無心する手紙を書きつづけるのか。おれが生きることはテオの家庭を崩壊させることだ。いよいよ踏み出さなければならなくなった。このプロジェクトを決着させなければならない。
彼はポンドワードの銃器店で拳銃を購入した。テオを、生きた芸術家の画を扱う画商から、死んだ芸術家の絵を扱う画商にするために。本物の画商になるには死の商人となって、画家に悪魔のように、ささやかなければならぬ。早く死ね、劇的に死んでくれ、その死が早ければ早いほど、その死が劇的であれば劇的であるほど、あんたの絵が売れていくと。事実その通りだった。いままた自殺した画家の絵が、高額で取引されているという話を耳にした。どこまでいっても結実しないプロジェクトを決着させるために、テオを死んだ芸術家の画商に格上げするために、ゴッホは麦畑のなかで決然と胸に弾丸を撃ち込んだ。たしかにその一撃は、彼の最後の手紙からそう読み取れる。しかしゴッホは同じ手紙のなかでこうも書いている。
「‥‥ところでじっさい、ぼくらはぼくらの絵に語らせる以外には何もできない。しかしそれでも弟よ、これはいままでにも始終きみにいってきたことだが、もう一度いっておく、出来るかぎりいい絵を描こうと思って心を引きしめ倦まずたゆまず努力してきたあげくの果ての、全生涯の重みをかけて──ぼくはもう一度いっておくが、きみは単なるコローの画商以外の何ものかだ。きみはぼくを仲介として、どんな暴落にあってもびくともしない或る絵の制作全体に自ら加わったのだ」
テオは死んだ画家の画商にはならなかった。兄の死に引きずられるように半年後に世を去った。テオもまたゴッホと同じように、三百年生きる、三百年かけてその思想を結実させるという創造者だったのだ。二人が企んだプロジェクトは、三百年どころか人類が存続するかぎり生きつづける。