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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第四章


目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ
第四章
 
                    
 宏子に電話をいれたのは、西海岸から東京にもどって十日もたっていた。たった一本の電話をいれるために十日間も迷い続けたわけだ。呼び出し音がカチャリと切れると、ぼくの心臓も一瞬とまったかのように思えた。
「もしもし」
 不安な声を送話器に流しこむと、
「実藤さんというわけ?」
 ぼくを励ますような明るい声がかえってきた。
「そうなんだ」
「あなたの電話を待っていたわけよ」
「それはうれしいな。今夜会わないか?」
 その夜、待ち合わせた渋谷の店にはいっていくと、片隅のテーブルに座った宏子が手をふっていた。まるでぼくをそこで何日も待ち続けていた人のようだった。
「絵葉書、びっくりしたわ。とってもうれしかった」
「あのとき言葉があふれでてきたんだ。指からこぼれ落ちるみたいにね」
 サンタモニカの安宿で、絵葉書を書いたのだ。ピリオドを打つそばから新しい言葉がぼくの指をせきたてた。それはとどまることがなく、なんと五枚もの絵葉書にナンバーを打って投函したのだった。
「あれを読んで、この間のあなたのへんてこな演説が少しわかったわ」
「あのあと、連中はぼくに抗議をいれる決議をしたらしい」
「仕方がないわね。正しい意見っていつも迫害されるものよ」
「君と引替えならば、どんな迫害をうけてもいいと思うよ」
「それほどの価値があるなんて思えないけど」
「いや、君はそれだけの価値があるんだ」
 小さなテーブルだったから向き合うぼくと宏子の膝がふれあうばかりだった。黒い幻想に苦しみながらも彼女にむかって歩いてきた。その解答が今夜ぼくの前に投げ出されるのだった。
「行きも帰りも飛行機のなかで、この本を読んでいたんだ」
 と言って、ぼくは一冊の本をテーブルの上においた。それは彼女が学問に開眼したという「中世の秋」という本だった。
「これは間違いなく西川なんかの論文と格がちがうことがわかるな」
「悪いわね。西川さんに言っちゃうから」
「あいつは所詮、糊と鋏族なんだと思うね。君はいつか本物の学者って数えるほどしかいないと言ったけど、いまの日本にこんな本をかける学者なんていないだろうな。この本には音楽が鳴っているよ」
「音楽が聞こえるなんて、あなたすごい読書屋さんね」
「ブルックナーが鳴っているようだったよ。君に出会ったということはこの本に出会ったということだな。それだけでもよかったよ」
「あとは全部損をしたってことかもしれないわ」
「そういうふうにはしたくないね」
「それが正解かもしれないわ」
「そんな正解くたばりやがれだよ」
 自惚れるなよ、と自分に言った。思い通りにこの世が動くわけではない。あと数時間で彼女の体が、おれの腕のなかにあるなどと想像してはいけない。しかし彼女の目はどうだろう。彼女の微笑はどうだろう。ぼくにもうすべてをゆだねようとしている。
 その店をでると道玄坂の中腹にあるバー〈セゴビア〉の扉を押した。カウン夕一にいる髭のマスターが衣袋だった。彼は大袈裟に肩をあげてウインクをよこした。そのウインクはすごい獲物を釣ってきたじゃないかと言っているのだった。
「あなたの行くところって、いつもスペイン風なのね」
「スペインに魅せられてるんだ」
 ぼくは二度ほどスペインにいったことがある。そんなこともあって知ったかぶりのスペイン論をぶったが、彼女の描くスペインには口をとざしてしまった。あの赤茶けたイベリア半島を、彼女の一家はジプシーのように放浪したのだ。
「君のお父さんは、実に不思議な人だな」
「父は大学の先生だったのよ」
「この前は貿易商って言わなかった」
「それは日本を脱出してからなの。それまでは大学の先生だったのよ」
「糊と鋏で論文を書いていたわけかな」
「たぶんそういった種類の学者だったかもしれないけど」
「なんだかそういう種類の学者じゃなかったみたいだな。君をみていてそう思うよ」
「ちょっとした学者になろとしていたことは事実よ。でも悪人だったの」
「どうして?」
「同じ大学の先生の奥さんを奪ってしまったわけなんだから」
「どういうこと?」
「つまり、それが私の母なのよ」
「その奪った奥さんという人が」
「そうなの」
 なんだか不思議な男だった。恩師でもあった哲学教授の若き妻を奪って日本を脱出すると、ヨーロッパや西インド諾島をジプシーのように放浪しながらコロンブス論を書き続けた。しかも膨大なノオトにつづられた文字は英語であり、スペイン語だったが、彼の生涯の野心は力を失った日本語に新しい血液をそそぎこむことだったという。なんだか聞けば聞くほどその謎が深くなっていくように思えた。しかし不思議なことに、その謎が深くなればなるほど、ぼくには逆に宏子がだんだん見えてくるように思えるのだ。
「わかってきたよ。いよいよ」
「なにがわかってきたわけ」
「ぼくはまちがいなく君に向かって、一歩一歩あるいていることが」
 ぼくは宏子の手をとった。彼女はその手をにぎりかえしてきた。彼女の方からやってくる熱い波は、もう愛のシグナルそのものだった。ぼくたちの間に横たわる大きな岩を、彼女の方からも砕こうとしているのだ。彼女の手をにぎっているとこわくなかった。最後の岩を砕くように、
「一つだけ訊いてもいいかな」
「なあに」
「どうでもいいことだけど」
「いやあね、なんなの」
「君は婚約者がいるんだろう」
「西川さんが、そう言ったわけね」
「うん」
「婚約者がいると、あなた困るわけ?」
「君は困らないかい?」
「そんな器用なことができる女だって思うわけ?」
「そうじゃないけど」
 とぼくはあわてて言った。
「嘘だわ。あなたはそう思っていたんだわ」
 藤野和也のことを話しはじめた。藤野という男はかすかだが血のつながっている遠い親戚にあたることを。宏子の母が、そしてそれを追うように父もまたこの世を去ったとき、宏子のかたわらに兄のようなやさしさで立っていたことを。そして彼が結婚しようと言ってきたとき彼のやさしさにうなずいたことを。しかしだんだんと彼との婚約が重く感じられ、彼から遠ざかりたいと思っていることを。ぼくはもうその先をきいていなかった。
 彼女の手をとるぼくの手は熱くなるばかりだった。熱い血がわきたってくる。その日は春の到来を思わせるようなあたたかい夜だった。裏通りから裏通りへとぬけていくと体育館の前の広場にでた。長い回廊を歩いていくと、そこには幾組もの恋人たちがキスをしていた。ぼくたちもキスをした。長い口づけでも彼女はどこか冷えたままのように思えた。そのことにちょっと不安がよぎった。しかし今夜ぼくたちは一つになるのだ。そのことはもう間違いがなかった。
「準備はできたのかな」
「準備はできているというわけ」
「アメリカでもずっと君のことを考えていたわけだよ。東京にもどってきても毎日毎日君のことばかりだった。会うのがとてもこわかったんだ」
「あなたにも準備が必要だったってことかしら」
「そうなんだ」
 ぼくはまた彼女の唇を奪った。彼女の唇もまた燃えてきた。彼女は冷えてなどいなかった。少しづつ少しづつ自分を開いていくタイプなのだ。もうまもなくぼくたちに解放が訪れる。火のような自由がやってくるのだ。ぼくの放浪は終わる。この女がぼくの放浪と孤独の終止符なのだ。
 大通りに出てまた裏通りを歩いた。闇の底に浮かぷようにピンクのネオンがみえた。そこはぼくたちの新世界だった。
「あそこにはいる勇気ある」
「あるわよ。でももう少し歩きたくない」
「うん」
「私は勇気があるのよ」
「そんなことに勇気がなくたっていいんだよ」
「でもやっぱり勇気が必要なのよ」
 ぼくたちはまた裏通りを歩いた。歓喜と解放への助走といったものだった。会話による熱い愛撫がぼくをくらくらさせる。
「長いこと結婚というのは一つの敗北だと思っていたんだ」
「どうして?」
「どいつもこいつも結婚して出来上がっていくという感じなんだ。ちょっとちがうんじゃないかと思っていたんだ。しなければならないことがたくさんあるのに、そんな簡単におめでたくなっていいのかなという思いがずうっとあったんだ」
「あなたってやっぱりへんな人だわ」
「そうだ。ぼくは変わっているんだ。でもそいつがひがみなんだってことにやっと気がついたわけだよ」
「どうしてそれがびがみってことになるわけ」
「ひがみなんだよ。ぼくだって結婚に女学生みたいにあこがれているんだからね」
「結婚って天国のようなものらしいわね」
「地獄かもしれないがね」
「天国なのよ。だからみんなそこに走っていくんだわ」
「君は走りたくないの」
「もうあきらめているのよ」
「なぜあきらめるわけ」
「まだ人生をあきらめたくないわけ」
「結婚が人生のはじまりということだってあるんだ」
「そういう通りもあるっていうことでしょう。でも私はそっちの通りを歩くことをやめてしまったのよ」
「どうしてかな」
「歩きたくたって歩けないことがあると思わない」
「君は歩けるよ」
「そういう通りにぷつかったら、きっと左に曲がってしまうわね」
 そして、本当に左に曲がるように言った。
「来月イギリスにいってしまうのよ」
「君が?」
「そうなの」
「留学でもするということなのかな」
「そういうことでもないの」
「どういうことなんだ?」
「私はもうすぐ三十になるわ。三十までにしておかなければならないことってあると思うのよ」
「あの論文を書くということ?」
「それもあるわね」
「その論文を書きあげるのに三年もかけるということなのか」
「もっとかかるかもしれないわ。もう日本にもどらないつもりででかけるのよ。そんな気持ちなの」
 彼女が遠くに吹き飛んでしまった。一瞬のうちになにもかもが砕けてしまった。おれはなんとおめでたい男なのだとぼくは思った。ぼくたちはまるで異なった言葉を交わしていたのだ。同じ言葉をつかっていたがその意味はまるでちがっていた。言葉だけではない。キスだってそうだった。ぼくたちのキスはまるで別のものだった。この女は来月イギリスに発ってしまう。日本を発つ前にちょっとぼくと遊んでみようという気になっただけなのだ。そんな女にむかって、おめでたいぼくは結婚というイメージを重ねていたというわけだ。
 悪趣味に満ちた部屋だった。熱い興奮はいまはなく、失望の大きさに打ちひしがれたぼくは安っぼい椅子に腰をおとしていた。白く、高い、神秘の頂などいうものはなかったのだ。
「どうするわけ?」
 とベッドに座っていた彼女が言った。
「どうするかな」
 憎しみ声でぼくも投げやりにこたえた。
「ずうっとこうしているわけ」
「そうじゃないさ。お風呂にでも入ろうか」
「あなたからお入りなさいよ」
 彼女は言った。しかしぼくは座りこんだままだった。彼女もまた座りこんだまま足をぷらぷらさせていた。
「やっぱり君が先に入れよ」
「いいわよ」
 と言ったが彼女も座りこんだままだった。また奇妙な沈黙が続いた。ぼくの落胆はあまりにも大きかったのだ。
「もうどうでもいいという感じじゃない」
「そうだ。もうどうでもいいんだ」
「じゃあ帰りましょうよ」
 彼女は立ち上がってぼくの前を通り抜けようとした。ぼくは彼女の手をとって、ぼくの上に座らせ、熱くなった唇を彼女のうなじに這せながら言った。
「ぼくはやりたいわけだよ」
「そうみえないわ」
「やりたいからここに入ってきたわけだよ。君だってそうだろう?」
「そうよ。でももうだめだと思わない」
「だめなことはないさ。ぼくのものは君のなかに入っていきたくてぴんぴんしてるんだ」
 ぼくは荒々しく彼女の愛撫していった。緋色のスカートの下から沃野のような白い脚に欲情の手を這わせていった。ぼくの指はせわしくあえぐように彼女の中心へ中心へと這い進んでいく。巧妙なぼくはさらに臆病な彼女の手を燃え立たせようと、チャックを開きそそり立つものを握らせようとした。二三度のデイトですぐ男と寝る女だった。イギリスに立つ前にちょっと遊んでみようとしただけの女なのだ。彼女はそそり立つぼくを遠慮がちに握った。ぼくは言った。
「大きいと思う? それとも小さい方かな」
「大きいって言われたいわけ」
「君が遊んだ男たちにくらべてだよ」
「なんだかおかしくない」
「おかしくないさ」
「なんだか誤解していると思わない」
「そうかな」
「私ってとても軽い女なのよ」
「ぼくだって軽い男だよ」
「でもあなたはちょっと誤解しているのよ」
 そうだ。誤解していたのだ。女と寝るときはそれ以上のものを求めてはいけないということなのだ。そそり立つものが女のなかに入っていけばいいのだ。それだけのことではないか。ぼくは乱暴に彼女を剥がしていった。白い柔らかい布が一枚また一枚と剥がされるいくその様子がぼくを苦しいまでに欲情させていく。
「どうして?」
 ぼくはちょっとおどろいて訊いた。彼女の目に涙がにじんでいるのだ。
「どうして泣いてるの」
「泣いてなんかいないわよ」
「泣いているじゃないか」
「泣いてなんかいないのよ」
 彼女はちょっとむきになって言った。
「どうして君はいやなことをするんだ」
「いやなことじゃないわ」
「うそだ。君はまた無理をしているんだ。なぜ無理をするんだ」
「無理をしているわけじゃないわ」
 彼女はさらに新しい涙をこぼした。この女はまた謎になった。ぼくにはこの女がまるでわかっていないのだ。
「あやまるよ。どうかしていたんだ」
 ぼくたちは外にでた。汚れた通りがざっくりと虚無を切り開いていた。まったくみじめだった。
「君はまるで紙屑を、ゴミ箱に投げ捨てるみたいに、イギリスにいくと言ったんだ。なんだかぼくは、紙屑だけの男だったのかと思ったんだよ」
 とぼくは言った。彼女はまたなにもこたえなかった。もうこれでぼくたちは終わりなのだ。
「なにか言ってくれよ。ぼくが悪かったんだ」
「そうじゃないわ」
「そうなんだ。いやな男だって君が思ったのも無理はないよ。ぼくもそう思うよ」
「いやな女だってあなたが思ったのも無理はないと思うわ。私もそう思うから]
「どうして同じことを言うわけ」
「私がいやな女だと思うからよ」
 それはいやな男だと言っているのだった。それはそうだ。いきなりそそり立つものをにぎらせて、大きいか小さいかって訊いたのだ。色情狂もいいところだった。彼女はもう見限ってしまったのだ。
「あなたにきっと意地悪したくなったのよ」
「意地悪だったのかな」
「そうよ」
「そうかな」
「あなたは別の人をみていたわけなのよ」
「君がわからなくなってしまったんだ」
「来月にイギリスにいってしまう女が、その前にだれかさんと軽く遊んでやろうとした女なのよ」
「そう思ったよ」
「そう思うの当然よ」
「そうじやなかったということがわかったんだ。君の涙をみて」
「実はそうだったのよ。私の涙なんかにだまされてはいけないわ」
 大通りに出るとたくさんの空車が止まっていた。彼女は黄色いタクシーの窓を叩いた。ドアが開いた。彼女はぼくを押しとどめると、一入で帰りたいと言った。
「じゃあ、明日会ってくれる?」
「だめだわ。明日は」
「じゃあ、明後日は?」
 彼女はこたえなかった。ドアがばたんと無情に閉まった。そしてあっという間にタクシーは夜の底に消えてしまった。
 それから毎日毎日が気がぶれるのではないかと思われるような苦しみのなかにあった。恋に狂った男がいた。女にふられて暴れまわった男がいた。そのたびにぼくは、たかが女じゃないか、女など腐るほどいるじゃないかと言ったものだ。いい気なものだった。恋を知るには気も狂わんぱかりの失恋をしなければならない。
 それは失恋だった。宏子は一日一日と遠ざかっていく。しかしぼくは一日一日と宏子への思いをつのらせていくのだ。荒れ狂う風に舞う木の葉のように、ぼくの心はくるくるきりきりと舞っていた。苦しくて苦しくてただもう毎日が苦しかった。
 ぼくは朝の喫茶店が好きだった。朝には力があり新生の息吹きがある。毎朝、〈バオバプ〉のカウンターでコーヒーをすすりながら新生の朝を味わうのだが、あの日からそんな朝は訪れなかった。コーヒーはただ苦く、店内に流れる甘い音楽は絶望をかきまぜるだけだった。いつものようにカウンターの隅においてあるピンクの電話を引き寄せて、ダイヤルをまわしてみた。その数字はもう空で覚えている。
 彼女が出てきた。とうとう宏子の声をきくことができた。あの日から九日もたっていたのだ。しかしその声はひんやりとしていた。
「明後日は?」
「ねえ、実藤さん」
「明日も、明後日も、明々後日もだめだというわけだね」
「ねえ、実藤さん」
 彼女の声は白く冷たかった。もう明らかではないか。もうさようならと言って受話器をおくべきなのだ。
「もうわかったと思わない」
「なにがわかったんだ?」
「きっと同じことになると思うのよ」
「そんなことはないよ。なぜそんな簡単にきめつけてしまうんだ」
 そして彼女の前に目分を投げだすようにまた言った。
「もう一度会ってくれないか。このままでは気持ちの整理がつかないんだ」
 彼女のひんやりした声が聞こえてきた。彼女はいいと言ったのだ。
 その日、風がうなりをあげて吹き荒れていた。雨も降りはじめた。嵐がやってきたのだ。なにか一つの終幕、一つのピリオドを打つにふさわしい夜だった。
 宏子はもうその店にきていた。ぼくをみると彼女は徴笑んだ。弱々しい微笑だった。しかしなんという美しい微笑なのだろうか。彼女はやっぱりぼくの白い高い頂だった。この女を失いたくないとはげしく思った。
「毎日電話をいれたんだ」
「金沢にいっていたのよ。母の実家があるの。そこで毎日海をみていたわ。それから松江によってきたわけ。そこは父の国なのよ。そこでも毎日海をみていたわ」
「君は海が好きだな」
「私って難破船なのよ」
「難波船で、世界の孤児というわけだ」
「亡命者みたいなものだわ」
「なぜ君が亡命者なんだ」
「書くということは港に入っていくことだと思うわけ」
「うん」
「英語という言葉は日本の港には入っていけないわけ」
「それでイギリスの港になるわけか」
「日本人の書いた英語なんて、あっちの港だってだめなのかもしれないわね」
「それで難破船になるわけか」
「でも難破船になりたくないってことだってあるわけ」
「でも君は難破船になろうとしているようにみえるよ」
「そうなの。どこか港に入っていくには、やっぱり船を漕ぎ続けなければならいってことなんだわ」
 言葉をもて遊んでいるのではなく、彼女が深い霧のなかに立っているということだった。あの夜ベッドをともにしたとしても、彼女とぼくの距離はイギリスと日本ほどに離れているのだった。そのことがだんだん明らかになっていくだけなのだ。
「論文って糊と欽で書き上げればよかったんじゃないのか」
「そういう論文もいっぱいあるということだわ」
「君が書こうとしているものは、なんだか論文というものではないみたいだな」
「一人でこの地上に立ってみたいことなのかもしれないわ」
「君は一人で立っているじゃないか」
「これは立っていることじゃないわけよ」
「立つということはどういうこと」
「つまり自分をつくりだしたいってことなの」
「論文を書き上げることによって君は君になるってこと?」
「そういうことだわ」
「だったらどうして日本語で書かないんだ。なぜ英語なんだ。書くってことはどこかの港に入っていくことだって言ったけど、日本の港に入っていくには日本語で書くべきだよ」
「でももう手遅れだっていうことがあるわ」
「どうしてなんだ。君はちゃんとした日本語を喋れる日本人じゃないか」
「人間って言葉によってつくられるとしたら、私は英語によってつくられたところがあるのよ」
 結局、この女のことがなに一つわかっていないことなのだ。なぜ気の遠くなるような長大な論文を書いているのか。なぜイギリスにいかなければならないのか。なぜ難破船で亡命者なのか。婚約者の藤野という助教授のことも、不思議な父と母のことも。そんなぼくを彼女は別の人間をみていると言ったがその通りだった。しかしだからこそ彼女のすべてを知りたいと思うのだった。
「もう一度君にむかって歩いていきたいんだ」
「私たちって酔っぱらっていたと思わない?」
「ぼくは酔ってなんかいなかったよ」
「そう考えるのが一番いいのよ」
「このままさようならしたくないんだ」
「もう決めてしまったのよ。ずうっと前から決めていたわけなの。金沢にいったのも松江にいったのも前から決めていたことなの。もう日本には帰らないことかもしれないって。そんな気持ちでイギリスにいくのよ」
「日本を捨ててしまうわけ」
「イギリスって外国人にはやさしい国なの」
 この女はやはり世界の果てからきた異邦人だった。その異邦人がまた世界の果てに帰っていくというわけなのだ。
「コーヒーが冷めてしまうわよ」
「あれから冷たいコーヒーばかり飲んでいたよ。コーヒーを飲みながら君のことばかり考えていた」
「もう考えなくたっていいのよ。それが最後のコーヒーだわ」
「このコーヒーを飲み干せば、君は永遠にぼくの前から消えていくわけだな」
 彼女の目の奥がゆらゆらとゆらいでいた。
「それじゃ飲まないよ。看板になったって飲まないよ」
「じゃあ私も帰らないわ。看板になったって帰らないわ」
 ゆらゆらとゆれていた彼女の目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。津波のように激しく大きな感情の波が、ぼくに襲いかかってきた。ぼくは強い人間ではなかった。ぼくは少しも強くはない。しかし彼女のやさしさに全力をふるって応じなければならなかった。冷めたコーヒーを一口すすると、
「もういいよ。もう大丈夫だ。さようならだよ」
 と言った。
 宏子は小さな声で、さようならと言って、店から出ていった。
 会社に戻らなければならなかった。ちょうど六月号が追いこみにかかっていて、今夜も徹夜仕事になる。しかし仕事どころではなかった。この激しい痛みにたえているのがやっとだった。
 レジのわきにある電話をとって編集部に電話をいれた。岡嶋がでてきてぼくを非難するかのように、七ページのキャプションはどうするんですか、十四ページの差し替えはどうするんですか、とうるさくわめいていた。ぼくは適当にやってくれと言った。君にすべてをまかすから適当にやってくれ、そんなぺ一ジも仕切れないなんて、お前何年編集稼業をやっているんだと言ってしまった。今夜ならだれにだって喧嘩をふっかけることができる。傾いた都会生活社だって打ち倒すことができる。どうせわが社はつぶれるのだ。世界はぼくとともに崩壊すればいいのだ。
《セゴビア》に入っていくと激しい雨のせいか、まだ時間が早いせいか、店のなかは空っぽだった。髭のマスターがボールペンを耳にはさんでしきりに電卓を打っていた。
「どうしたんですか。ばかに早いじゃないですか」
「飲ましてくれよ。今夜は自棄酒だよ」
「辞表でもたたきつけてきたというわけですかね」
「失恋なんだよ、失恋」
「まさか」
 髭のマスターは全然相手にしなかった。
「今夜はつぶれるからな。あとはよろしくたのむよ」
 ボトルをかかえて片隅に座った。そこは数日前に宏子と座ったところだった。恋に破れた痛みが、ぼくの胸にずきずきと突き刺さっていく。その痛みを追い払うように、ぐいとウイスキーを流しこんだ。マスターがカウンターからあまり荒れないで下さいよと声をかけてきた。これが荒れないでいられるか。この激痛を麻痺させるには、こいつをとことんあおる以外にないのだ。ぼくは彼女を罵りはじめた。あの女をぼくのなかから追放するのだ。あの女はくそったれ野郎なのだ、どんな男とも寝る女なのだ、どんな港にも入ることができない異邦人で、やがて海に沈みいく難破船なのだ。ありったけの汚れた言葉で宏了を八っ裂きにしようとした。しかし罵れば罵るほど、八っ裂きにしようとすればするほど、宏子はそびえ立っていくのだ。あの声が、あの微笑が、あの涙が、あのおそるおそる伸びてくる手が、ぼくの胸を焦がすようにせつなく苦しく蘇ってくるのだった。
 上体がぐらぐらと揺れはじめた。われとわが身を打ち砕くようにあきれたピッチで飲んでいたのだ。最後の止どめをさすようにまたぐいとウイスキーをあおった。どうせおれは女に捨てられた紙屑であり、ぶっこわれたタイプライターであり、落下寸前の掲示板だ。こんなガラクタはどこか埋め立て地にでも送り込んであとかたなく消し去ってしまったほうがいいのだ。よろしい。そういうことだ。ぼくはよろよろとよろめきながら外に出てみた。
 嵐だった。激しい音をけたてて雨が、通りを、ビルを、ネオンを、ガードレールを、木立ちを、電話ボックスを叩いていた。すさまじいばかりの雨だった。路上には人っ子一人歩いていない。車道を車がラッセルしていくように水しぶきをあげて走り去る。ぼくはこの雨のなかを歩きはじめた。たちまちずぶ濡れになった。壮快だった。滝に打たれるような仕快さだった。崩壊していく男にふさわしい雨だった。もっと吠えろ、もっと猛り狂え、汚れたこの都会を大洪水にしてしまうのだと、新劇俳優のように両手をひろげて叫んでみた。実藤光延は今夜崩壊する。三十年の人生にピリオドを打つにふさわしい日だった。
 なぜか全身が軽くなって踊りはじめていた。雨に歌えばと歌いながら、ぴちぴちちゃぷちゃぷとたまった雨水をけりながらタップダンスをやってみた。千鳥足の乱痴気騒ぎにみえたって、ぼくはタップダンスをやったつもりなのだ。滑稽なぼく。あわれなぼく。足を右に左にラッタッタラッタッタと蹴り上げながらカンカン踊りまでやってみた。そして両手を高く上げてクルクルクルと回った。白鳥の潮なのだ。傷ついた白鳥。いまわのきわの白鳥。
 交番に立つ警察官がなにか字宙からきた奇妙な生物でもみるようにぼくをみていた。ぼくは敬礼をした。腕を大きく振り、偉風堂々の行進よろしくまた歩きはじめた。一人の酔っぱらいが、一人の恋に破れた男が、一人の気が違いかけた男が、滝のような雨のなかを歩いていく。こうして歩いていけばもしかしたらこの世から脱出できるかもしれないのだ。
 ふと顔をあげると、この世とは思えないような静けさがあたりを支配していた。目の前には異国の墓石が立ち並んでいた。白い街灯は死の国に浮き出していて、通りの並木は死者たちの葬列のようにもみえた。ぼくは一瞬、ここはあの世なのかもしれないと思った。あの激しい雨はいまはなく、糸のような雨が降っていた。
 冷たい床から身を起こしてみると、ぼくはただ路上にころがっていただけなのだということに気づくのだった。とぎれた意識をつなごうとしたが、きれいさっぱりとあの嵐のあとが欠落していた。なにも思い出せない。だれかがしきりにぼくをこづき、大声で怒鳴っていたこととなにか関係がありそうな気もする。どうやらここにたどりつくまでに、一騷動も二騷動もあったようだった。
 ぼくは立ち上がり、とぼとぼと歩きはじめた。水をたっぷりと吸ったスーツは鎧のように重かった。冷たさが全身をずきずきと攻め立ててくる。あたりは死の静寂に包まれていた。車も通らない。なにやらもう少し歩けば、この世を吹っ切るのではないかと思われるほどだった。
 それは奇跡という以外なかった。目の前に赤煉瓦のマンションが立っていたのだ。盲滅法に歩いているのに、そのマンションの前に出たのだ。なにか目にみえぬ力が、ぼくを導いたとしか思えなかった。そのときぼくは少しもためらうことなく、まるでそこにむかって歩いてきた人間のように、光りを落としたフロアーを横切り、階段をつかって三階にでた。大きなつくりの部屋がはいっているのか、各階に二つのドアしかない。ぼくはその片方のドアのインターホーンを押した。ドアが開いた。宏子が驚きの目でぼくをみていた。ぼくは静かに言った。
「君をレイプしにきたんだ」
 そのとき宏子は、なにか雷に打たれたかのように顔をゆがめるとぼくに飛びついてきた。
「野良犬のように歩いてきたんだ。君が好きだ。君を失いたくないんだ」
 濡れたぼくを宏子はあたためるかのように、ぼくと一つになるかのように、強く激しくぼくを抱きしめると泣きじゃくりながら、
「あなた、ねえ、あなた。もっとそばにきてちょうだい。もっと、もっと、そばにきてちょうだい」




 
 
 

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