宿題 菅原知恵子
愛しき日々はかく過ぎにき 菅原千恵子
八月十三日頃になると、日中の暑さはまだまだなのに、夕方暗くなる頃から虫の声があちこちでするようになった。夏休みのイベントのほとんどを消化して、休みは残すところあとわずかとなっている。「うみ」とか、「むぎわらぼうし」とかの名前がついている夏休み帳は、解からないところだけが虫食いのように残っていて、見るのさえうんざりなのだ。それは、見るたびに、やってしまわなければという強迫観念に追いつめられるからかも知れない。
宿題として、提出しなければならない自由な作品は、お決まりの海の絵を描くことで終わりにし、相変わらずだらだらと時間だけが過ぎていった。去年の小学校の最初の夏休みでは、海など見たこともないものたちでさえ、海の絵を描いて提出しており、私は、そんなことをしてもいいのだろうか、許されることなんだろうかと、真剣に思ったものだ。そのくせ、そういう私が、二番目の姉にわざと下手に描いてもらった庭に咲いている百合の花の絵を提出していたのだから、なんとも言い訳のしようのない話である。
絵を描くといっても、とりたてて書きたくなるような景色や出来事だってないのだから、クレパスを持ったまま、何時間もボーとしていることになる。この夏はめいっぱい遊んで楽しいのだけれど、それを具体的な絵として描くのは、やはり難しいものだ。何か描こうとすると、二番目の姉が夏の始めに学校から参加した夏山登山の話だけが、心に思い浮かんでくる。それは、雲が顔のすぐ近くを流れていったという話から、私なりに想像していたことだった。
「どうしておみやげに雲を持ってきてくれなかったの。雲がほしかっだのに」
「だって、雲なんてつかむことができないんだよ。ただの水なんだもの」
真っ白い雲が、空に漂っているのを見ていると、ふわふわとして柔らかく、おいしそうで今すぐにでも本物を見てみたいと思うのだ。ただの水という姉の説明だけで、納得しているわけでは決してない。それどころか、あの柔らかな雲がただの水といわれると、自分思い描いていたこととの大きなギャップに戸惑うばかりだった。自分で考える雲は、どうしても綿菓子のように、ふんわりと甘く、山々の上を漂い流れていっているように思われ、山の絵を描いては、その上に綿菓子を乗せたような雲に固執してしまい、自分でも、本当に困ってしまっていた。
何も思いつかず、無理にでも何か描かなければならないと思うのは、苦しいことである。私は、クレパスで、意味不明の山や、雲を描いてみては気に入らず、画用紙を五枚も駄目にしてしまっては、溜め息をついてばかりいた。なんでもいいから姉に描いてもらいたいと思っていると、突然、トムが脱走してきて我が家の庭に片足を上げてオシッコをして出ていった。それを見ているうち、急に、トムやエスやジョンの絵が描きたくなった。私は、あわててクレパスで、エスが私たちと遊んでいる姿を大きくまんなかに描き、はじっこのほうにトムやジョンの姿を描いて、[私の家の犬]と嘘の題をつけて描きおえた。嘘ではあったが、これは私の願望でもあった。
絵の上のほうには、万国旗のように洗濯ものが千されているのも付け加えた。夏休みが終わってしばらくしてから、「よくできました」というハンコが絵の後ろに押され、その脇に「旗の下で犬たちのうんどうかいでしょうか。楽しそうですね。」と書かれて返された。それを見て、私はどうしてこれが旗に見えるんだろう、どうして運動会だと思うんだろうと、軽い失望と軽い怒りを覚えていた。子どもの思いと、大人の思い込みにはいつもこんなふうな開きがあったことをいまさらながら思い出す。
新学期は、八月二十六日からだった。白く乾き切った校庭で、校長先生の話があり、「長い休みが終わると、今度は勉強の秋がやってきます。たくさん遊んだあとは、心をお勉強のほうへ向け、今まで以上に楽しく学んでください」
という、毎年聞かされるありふれた訓話を聞き、この話を聞くといよいよ勉強がしたくなくなるという不思議な心理状態に陥れられるのが常であった。
新学期になって、小さな子どもが校長先生の話を聞いたからといって、さあ、これで今日から勉強するぞと意気込む子どもなんているのだろうかと私は思っている。それは、多分、新学期になると大人が子どもにしなければならないと信じている義務的な儀式のようなものだったのかも知れない。
早く話が終わればいいなと思っていると、転任される先生の紹介があった。顔を上げるとどうしたことか、私の担任の先生が違う小学校にゆくことになったというのだった。そのかわりの先生の紹介もあった。これまでの担任の先生は、みんなに挨拶し終えると、学校からいなくなって、さっき紹介された先生が、新しく私たちの担任になって教室にやってきた。三十ぐらいの女の先生で、彼女は震える声をしていた。私はその声が耳障りで、あまり好きになれなかった。しかし、早々と席替えをしてくれたおかげで、私は、勉クンから開放され、二度と彼と並ぶことはなかった。
新しい町での生活は、瞬く間に過ぎていって、いつのまにか冬がやってきていた。早々と雪が降るH町に比べると、S市では晴れた日が多く、冷たい風が肌を剌すように感じられる。
私は、父の同僚で、子供のいないH小父ちゃんに特別可愛がられていた。彼はいつも私のような子どもがいたらどんなにいいかといっていた。そして、ある冬の初めの頃、H小父ちゃんの家に遊びに行かないかと誘われ、遊びにゆくことになった。H小父ちゃんは、道を歩くときも、私を抱え込むようにして、どうすれば自分の気持ちが通じるかしらというように、優しく優しく接してくれ、もし、私さえ良かったら、小父ちゃんの子どもにならないかなとも言った。小父ちゃんは、少しお酒が入ると、私のほっぺをすぐ舐めてしまう。父も母も、子どもの好きな人のところには、どうして子どもが生まれないのだろうと気の毒がって、いつも私が頬を舐められるのを笑って見ていた。
私は、小父ちゃんが大好きだったし、なんでも私の願いを叶えてくれそうだったから、小父ちゃんの子どもも悪くないと思っていた。しかし、小父ちゃんの家に行って、小父ちゃんの奥さんに会ったとたん、その気持ちはなくなってしまった。奥さんは、とても美しい人で、私を見ると笑いかけてくるのだが、その笑顔は、無理してつくっているように思われた。ことばは、とてもこの辺では聞くこともできないような、流暢な東京ことばで、余りにきれいなために、私には、それもなじまなかった。
三時間ほどいる間、私は一言も囗をきかずにただ小父ちゃんと向かい合って黙り込んでいた。そして、ことばを発する代わりに、うんとかいいえとかを、首や頭を動かすことで済ませていた。いくら小父ちゃんのことが好きでも、奥さんと三人になると、私はただ、息苦しいだけだということを発見したのだ。奥さんは、私に、ビスケットとカルピスをお盆に乗せて運んできたが、丁寧に、「どうぞ、召し上がれ。」とひとこと言っただけで、それ以上は薦めもしてくれないのだ。「てんで教」のおばちゃんのように、すがりついて甘えられない人とそうでない人の間には、飛び越えられない大きな隔たりがあった。そして、この二つの分類こそが、この頃の私が人間を判断する唯一の基準だったような気がする。とりすましたような冷ややかな感じのする人は、私はほとんど嫌なのだ。
小父ちゃんは、きっと、私のことを奥さんにいろいろ可愛い子だよ、なんて話していたに違いない。それなのに、私はだんまりを決め込んで、まるで田舎者のはにかみやをさらけだしてしまい、ずいぶん小父ちゃんは恥をかいただろうと私は今なら察することができる。私は、大きくなってから、小父ちゃんは、私を養女にしたいと本当に思っていたのかと毋にきいてみた。母に言わせると、そうかも知れないけれど、父と母は、そんなことなんて考えてもいなかったといっていた。あの頃の私だって、自分の家が一番なのだと信じて疑っていなかった。
小父ちゃんは、勢い込んで私を連れ出したのに、手に負えなくなって、私を家に連れ帰ってきた。そして、父と母に、
「千恵子ちゃんにはまいったなあ。一言も口を開かないんですもの。せっかく女房に自慢してみせようと思っていたのに、これであきらめましたよ。」
何をあきらめたのかはしらないが、小父ちゃんは半年もしないうちに、東京へ転勤になっていってしまった。今でいう、公務員のキャリア組だったということだろう。私が中学一年生の時、仙台に出張でやってきて、私の家に寄っていったことがある。私が大きくなっているのを見て、驚きと喜びを同時に表わしてくれた。それは小父ちゃんの優しい目を見ると解かった。
でも、もう舐めてしまいたいとは言わなかったし、小父ちゃんのところには別の女の子が養女として一緒に暮らしているのだといっていた。その女の子は、広田三枝子の大ファンで、テレビに彼女が出ていると、部屋から吹っ飛んでくるのだと、うれしそうに話していた。小父ちゃんに可愛がられているその見たこともない女の子を想像して、ほんの少し、私は妬けた。胸の奥が切なくて、寂しかった。
私が複雑な気持ちでいると、母が、私が大人っぽくなったという意味で、もう、シェイクスピアを読んでいるのだと小父ちゃんにいってくれたことで少し救われたような気がした。しかし、それは正確には違っている。原作は確かにシェイクスピアではあったが、ジャムが戯曲を少年少女向けの物語に書き下ろしたもので、大人が読むそれではなかったのだ。にもかかわらず、私はあえて訂正をしなかった。なぜなら、小父ちゃんが、「そりゃあすごいよ。すごい」と、思いがけず喜んでくれたし、私は、私で小父ちゃんには背伸びしてでも、いいところを見せたかったからだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?