見出し画像

その話は断って下さい

 その三日後だった。野田夫妻がそろって修理屋の扉をあけて入ってきた。店内に入るなり、
「杉浦さん、今度は断わらないでくれよな」
と夫君が言い、夫人もまた、
「そうだよ、篤史さん、こんないいお話を断ったら、あんた罰があたるよ」
 また縁談の話だな、縁談の件ならば申し訳ないが、返事は一つしかないと応じようとした。しかし夫妻が切り出されたのは空が地に落ちてきたような話だった。衝撃で篤史の顔が青ざめるほどだった。村井さんが野田家具店を訪ねてきたと言うのだ。村井さんってだれですか問うと、あの女性の父親、三日前に紳士靴を購入した人のことだった。野田夫妻と村井家はどうやら深い交際があるようで、二人は互いに言葉を補いながら話しだした。

 ほら、二丁目の通りに広い駐車場があるでしょう、その奥に桜の木で囲まれた家があるけど、そこが村井さんの家なのよ、つましい平家だけど、松井さんはあのあたり一帯の土地を持っている大地主なんだよ、その駐車場だって松井さんの土地、そんな大金持ちなのにNHKの集金人を定年後のいまも続けているのよ、奥さんは五年前に亡くなって、いまはお嬢さんと二人で暮らしているけど、そのお嬢さんが何度かあんたの店にいったんだってね、篤史さん、しっかり聞いてよ、そのお嬢さんは聖心でているのよ、美智子さまがお出になった学校だよ、それで三菱に入って、いま社長秘書しているの、丸の内にある大企業の社長秘書だよ、どんなに仕事ができるかということだよね、お嬢さんは今年三十八になるけど、いままで独身を通してきたのは、なんでもずうっと一人の人を待っていたんだって、それでいままで独身だったらしいけど、でも篤史さんにあって、お嬢さんの心が動いて、それが松井さんにはっきりとわかって、それで松井さんはね、お嬢さんをあんたに嫁がせたいということなのよ、それで、それでよ、私たちに食事する席をつくってくれって言ってきたのよ、つまりお見合いの席を作ってくれっていうことなんだよ。
 
 興奮した口調で、互いに話を補いながら話した二人は、篤史の胸に鑿でも打ち込むように、
「篤史さん、あんたね、松井さんのお嬢さんからプロポーズされたんだよ」
 と夫人が念を押し、
「今度は断らないでくれよ、これはな、あんたに天が与えた運命ってもんなんだよ」
 と夫君がさらに念を押した。

 篤史はそのとき女性の名前をはじめて知った。亜希子という名前を。篤史が一人の女性にこんなに深く思いを寄せたことはなかった。その二カ月間、湧き上がる妄想と戯れながら幸福な時間を過ごした。彼の人生のなかで、こんなに歓喜と官能あふれる妄想と戯れた日々はなかった。その人との生活。もはや自分は一人ではない。愛する人が傍らに立っているのだ。自分の人生は失敗ではなかったことを高らかに歌う生活がはじまるのだ。
 
 しかしそれはどこまでも妄想がつくりだしていく恋だった。けっしてその妄想は現実とならない恋だった。その妄想が現実となっていく話が篤史の前に差し出されたということなのか。しかし彼の答えは最初から決まっている。その返答を伝えるには早いほうがいいと、二日後に野田家具店を訪れた。
「あの話は、申し訳ないけど、断って下さい」
 すると二人とも座っていた椅子から飛び上がった。
「断る、断るだって、それはどういうことなんだ!」
 と野田は叫び、夫人も金切り声だ。
「どうして断るの、こんないい話、いったいなにが不満なのよ!」
「いや、不満なんて、とんでもない、不満なんて、身分が違うんです、ぼくはあの人と結婚するなんて身分じゃないんです」
「あんたね、身分が違う、身分が違って、どう違うんだ、言ってみろよ、どう違うんだ、松井さんちは皇室ご一家じゃねえんだぞ!」
「そうよ、こう言っちゃなんだけど、松井さんはそりゃあ大地主だけど、NHKの集金人だったんだよ、毎日毎日地べたを歩きまわって、一軒一軒集金に歩いている人じゃないか、松井さんはそんな人なんだよ、そんな人だからあんたのことがちゃんとわかったのよ、あのお嬢さんは、そんな人の娘なのよ、そんな人のお嬢さんだから、篤史さんのことをちゃんと見抜いたのよ、松井さんからよろしくお願いますとたのまれたとき、あたしはね、こちらこそよろしくお願いますって言ったんだ、かならずお嬢さんを幸せにします、これはお嬢さんが幸せになるお話です、こちらこそよろしくお願いますって」

 篤史は激昂する二人に打ち砕かれたいと思った。空から降ってきたような話を懸命に実らそうとする二人に土下座して、われとわれとわが身が粉々になるまで打ち砕かれたいと。土下座こそしなかったが、顔を伏せ、涙をこぼすまいと懸命に耐えていた。
 こうする以外にないのだ。それが彼の背負っている運命だった。その運命に従わねばならないのだ。そうではないか。あの人はおれの作った靴に耳を当ててビバルディが聞こえると言った。しかしおれの作った靴の底からさらに流れてくるものがある。血だ。どす黒い血がどっと噴き出してくる。人間を刺殺した血が。


いいなと思ったら応援しよう!