新聞配達の後を追う 山崎範子
私は東京に来て十四年。ずっと東京新聞をとっている。二年前のある日のこと。集金に来た配達のお兄さんと二歳の娘が地球儀を回しながらジェスチャーをしている。まだ日本語を覚える前の彼と、幼ない子どもの会話だったのだ。
彼の名はクヌーラ・リヤナゲ、現在二十五歳。スリランカから来た学生だった。その後、道で会うたびに子どもは勢いよく手を振る。私も谷根千配達車が新聞配達と同じ自転車なのでなんとなく同志的親しさがある。クヌーラさんの日本語はすごい勢いで上達した。子どもは集全日を心待ちにして話をする。思いたってある朝、私は朝刊を配達する彼の後をくっついて走ることにした。
クヌーラさんは朝四時半に起きる。五時に田端の販売店を出発、六時十五分、団子坂マンションに配達にくる。このマンションは三十一所帯で東京新聞はうち一軒だけ。出発時に百七部持ってきた新聞は、残り七十部ほどに減っていた。彼の配達区域は千駄木三、四、五丁目全部と、一丁目、向丘二丁目の少し。朝日新聞はほとんど同じ区域を五人で、しかもひとり二百五十部以上を配っているという。
「東京の人、東京新聞の事知らないね」とクヌーラさん。
保健所通りを走り、歩道の縁石にペダルをひっかけるように自転車を止めて、スポッと新聞を入れる。スタート時のスピードを利用して坂をスーツと上がる。警察の官舎は二棟もあるのに東京新聞を読むのはたったの三軒。クルッと回転して宮本百合子ゆかりの門跡を入る。ひと筆書きになるようによく考えられたコースは、路地から路地を抜け、まるで迷路を連れ回されているようだ。
区の掲示板の前で突然止まる。
「これ、ポスター、なに?」
見ると、区民へ交通災害共済に加入を勧めるポスターで、激しく車が行交う道のまん中に、家族団らんの食卓を合成した写真。
「ここで、車、買えるの?」「買えない。これ自転車事故起こしたときに見舞金がもらえるように、っていうポスター」
「フーン」
また路地に入る。朝日新聞の人と挨拶をしてすれ違う。なるほど、さっき保健所の前にいた朝日の人とは違う。
「ここと、ここは朝刊だけだよ」
「そんなに細かくて間違えない?」
「忘れたことはある」
口笛吹いて、鼻歌うたって走る。サッと止めて、クルッと回る。自転車の扱い方は芸術的にさえみえる。韜の湯の前でまた違う朝日に会う。揃いのジャンパーを着てるから目だつなあ。なぜか、毎日と読売には会わない。回生堂薬局の前で時計を覗く。七時だ。
「いつもは、ここで七時十分前ね、今日は寝坊した」
「それに私かくっついているしね」
五丁目の路地奥にローセキで道いっぱい線路、駅、電車、町の絵が描いてある。子どもの楽しい絵にしばらく見とれた。梅がそこここで咲いている。駒込病院前の通りを白山上に走り、団子坂をまた下がる。大銀ストアの脇を入って、配達は終わった。新聞広告にヘリコプターのパイロットになるための専門学校の案内があった。
「ここ、ぼく入りたいな、入れる?」
「パイロット? 年齢も学歴もカンケイないって書いてあるから、電話してみるといいよ」
「ウン。日本は何でも便利ね。でも、暮らすの人変」
「スリランカに帰るの?」
「勉強してから。スリランカに両親と妹二人と弟一人、それから恋人がいる。この問、テレビでスリランカを映してた。でもテレビで見せたのスリランカの悪いとこだけ。貧しい、ゴミで汚い。でもスリランカは仏教の国で、紅茶の国。お寺も、紅茶つくるところもとってもきれい」
クヌーラさんは集金に来た時に、つけっ放しのスタンドを「消しな、電気もったいない」とか、「ごはん残したらダメよ」と子どもに話してゆく。子どもの心にストンと落ちる話し方だ。
七時半、彼は配達を終え、日本語学校に向かった。
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