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周藤佐夫郎讃歌

我らの人生の師、周藤佐夫郎さんが亡くなった。百歳だった。一世紀を見事に生きた人生だった。悲しみは深い。


群馬県前橋市の諏訪町で魚屋を営んでいた家に誕生した周藤さんは、十二歳のとき奉公にだされる。向かった先は東京の新橋に立つ小さな徳久製作所という工場で、その製作所に実に八十歳まで工員として勤務していた。しかし周藤さんにはもう一つ画家という職歴をもっている。私が定義する画家とは、たとえ一枚の絵が売れなくとも、絵を描くことで人生をつらぬこうとした人をさすのだが、周藤さんがはじめて絵筆をとったのは六十五歳のときだった、そのときから今日までまぎれもなく画家として生きてきたのだ。したがって、周藤さんの職歴は、工員にして画家であった。

画家となった周藤さんが生み出す絵は、アカデミズムの、あるいは絵画コンクールの基準に照らしてみると、おそらく稚拙な絵と烙印されるのだろう。どんな絵画コンクールに出品しても当選の報が届くことはない絵を、周藤さんはひたすら描きつづけてきた。周藤さんにとって、アカデミズムや絵画コンクールの基準など無縁の存在であり、むしろそれらの基準を拒絶しているところに立っている絵なのだ。

周藤さんの絵がなぜ稚拙なのか。なぜ周藤さんは稚拙な絵しか描けないのか。いや、そういう表現ではなく、なぜ周藤さんはかくも豊穣なる稚拙な絵を描けるのか。それは周藤さんが稚拙という土壌をもっているからである。この土壌から見栄えのいい、スマートな、きれいに整った、コンクールに出品すれば何とか賞を受賞するような絵はうまれてこない。その土壌から生み出されるのは、いつだってごつごつした、見栄えの良くない、規格外れの、けっして市場に送り出せないジャガイモのような絵である。しかしそのジャガイモが大地の生命力をたっぷりとたたえているように、周藤さんの生み出した絵画もまたたっぷりと生命の滋養をたたえているのだ。

そしてその稚拙の絵に、絵画のもつ力、人間の魂を治癒していく美術の力、襲ってくるさまざまな悲劇や不安から救い出していく芸術の力が縫い込められているのだ。それは周藤さんが六十路に道に踏み込んだときのことだった。勤勉にして高度な技量をもつ周藤さんは、いつものようにスチールを旋盤で裁断していた、そのとき破断されたスチールの破片が周藤さんの右目に突き刺さるのだ。それは周藤さんの肉体と同時に精神に突き刺さった大事件だった。うろたえる周藤さんは、そのときはじめて絵筆を手にして、絵を描きはじめる。右目を失った。しかし左の目は健在だ。残された左の眼でしっかりと世界の存在を見るべきだ。カップを、スプーンを、グラスを、ワインのボトルを、玉葱を、人参を、キャベツを、ジャガイモを、リンゴを、葡萄を、人形を、男を、女を、裸の女性を、家屋を、公園を、田園を、山巓を、妻を、妻の笑顔を。そして残された目でとらえたこれらの像を紙の上に描き込んでいこうと。



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