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曽田ノ池の猛魚の正体 帆足孝治

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《草の葉クラブ》は三百年の年月をかけて四つの事業をこの地上に打ち立てようと画策しているが、その一つが『誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でもで出版社が作れる』革命である。その革命を進行させる《草の葉ライブラリー》は一千二百枚になんなんとする大作、帆足孝治著の名作「山里子ども風土記」を来春にも刊行させようと鋭意制作中。

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山里子ども風土記 第9章            帆足孝治


珠盆地を囲む山々

玖珠盆地は周囲をすっかり山々に囲まれているため、どこかへ出かけるにはこれらの山々を越えるか、谷間を縫って行かねばならない。もっとも普通の家庭では遠くへ旅行をすることなど滅多になかったから、私たちは遊びや遠足で山に登る機会があると、山頂から向こう遠くを眺めやって、よその町が見えないか、海が見えないかと、重畳と連なる山並みの向こうには何があるのか非常に関心があった。

昔からこの地で育ち、大志を抱いて都会へ出て行った若者達は、みんなこうした山の向こうの、まだ見ぬ未知の世界にあこがれて故郷を巣立っていったのであるが、山の彼方に対してわけのわからない漠然としたあこがれを持つのは、この山里に育ったわたしたち子供たちとて同じである。実際にはこの辺りの山は、いくら頂上に登ってみても、山の向こうはまた山で、少々行ったくらいではなにも変わることはないのだが、なぜかあの高い山に登れば向こうの景色がガラリと変わって、いつか国語の教科書にあった

山の向こうは海だった
広い広い海だった
青い青い海だった

という詩のような風景が実際に現れるのではないかと、いつも期待して登ったものである。

私たちが比較的よく登ったのは角埋山や小岩扇で、そのほか宝山、猪口山、伐株山などにも何回か登ったことがある。特に小岩扇は森小学校にいた頃は春の山上運動会がこの山の頂上で開かれたし、そうでなくてもワラビやゼンマイやセンブリなどを摘むのにいい場所だったから、こども同士で、あるいは部落の人達と何度も登った。やや遠くまで足をのばせば伐株山や万年山があるが、伐株山も標高は六八五メートル、麓からは300メートル足らずだから山頂に登って、そこから下界を見下ろしても玖珠盆地が眼下に一望できるというだけで、大したものは見えない。

そこへいくと、伐株山の後ろに屏風のようにそびえる万年山は高いだけに見晴らしがちがう。小学校に入って間もないころ、山開きの行事に参加するため友達と燕岳登山口から登ったことがあるが、さすがに1、000メートルをこえる万年山だけあって、その登り道の急なこと、そして山頂の遠いのには参った。苦労してやっと万年山に登って、さあ山頂だと腰を伸ばして先方を見やれば、さらにむこうに一段と高い山が連なっており、そこが上万年(うわばね)という山頂である。頂上は平らに広い草原となっていて、伐株山とちがって標高が高いので、東方の遥か彼方には霞んだ由布岳が見え、南の方を見やれば阿蘇のカルデラが手にとるように見晴らせる。

ここから望む阿蘇山は「阿蘇の寝観音」といって、外輪山の中央に霞んで横たわって見える根子岳、高岳、煙吐く中岳など阿蘇丘岳の並び具合は、ちょうど観音様が仰向けに寝ているような形にみえる。山頂がギザギザになった根子岳が顔にあたり、少し右手のいちばん高い高岳はちょっと大きすぎるが、ちょうど観音様の豊かに盛り上がった胸のようにみえるからそういわれているのである。

阿蘇山はこの万年山の山頂からみれば真っ正面に中岳の噴煙が見え、人声をだせば届きそうな感じさえする。まさに手に取るほどの距離だ。いまでこそ玖珠からも車で簡単に行けるが、私が子供だった頃は、そんなところはまず行くことのない、遥かな遠い山だった。ここから見ると山の向こう側はもう肥後の小国である。


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大観峰と「フルーツみつまめ」

昭和二十四年の夏、私の一番上の兄、辰雄が東京から恵美子姉と一緒に玖珠に帰省してきたおりに、私は彼らにお供をして阿蘇登山をしたことがある。あのころはまだ「やまなみハイウェイー」などという立派な観光道路はなかったし、仮に道路があったとしても自家用車もタクシーも観光バスも、また、もちろんこれらを利用するお金もなかったから、実際に阿蘇山に登ろうとするなら玖珠から久大線で久留米へ出て、そこから鹿児島本線に乗り換えて熊本まで行き、さらに豊肥線で人阿蘇の外輪山を上って、火口原にある坊中(ぼうちゅう)というところまで行かなければならなかった。そこまでいけばもう阿蘇五岳は目の前であるが、こうして回って行くと優に一日かかった。

私たちもそうして阿蘇へ行ったのだったが、その日は坊中(今の阿蘇)の駅前の旅館に泊って、翌朝早く駅前から出る登山バスに乗った。
登山バスが山にかかると一メートル先も見えないほどの朝霧で、窓外は真っ白いミルクのようである。われわれはそんな中をバスガールの「ここは杵島の北つづきーぃ、中に火を吐く中岳とーぉ」という名調子を聞きながら、一生懸命に見えない景色を探った。バスが喘ぎあえぎ、幾つもいくつもうねうねとカーブを繰り返しながら高度を上げていくと、ようやく薄日が差し始める。

過ぐる昭和八年の二月の二十四日には
あの中岳の火口から溶岩、灰上もの凄く
天に沖して渦を巻き
見るも壮観でございましたァ

と、バスガールが大噴火の歴史を説明するころには、米塚もはっきり見えるようになった。

私たちは中岳の火口へ登り、半日かけて休火口や草千里浜などを散策した。火口付近には進駐軍も遊びにきており、大勢の観光客で賑わっていた。午後、私たちは再び坊中駅に戻ると、ここから阿蘇谷を横断して外輪山に登るバスで大観峰へ出た。雄大な阿蘇谷を横断して、外輪山のつづら折りの下り坂道にかかると、我々をのせた木炭バスは途端にだらしなくなって、大した坂でもないのにエンジンがヒイヒイと悲鳴をあげ、今にも止まりそうなほどゆっくりと時間をかけて登った。

阿蘇の大火口原を見下ろす景観が素晴らしいというので、ここを訪れたのだが、来てみるとなるほど確かに見晴らしはいいが、辺り一面は背丈を超える茅のヤブ続きで、うっかり動き回ると迷子になりかねない有様だった。当時はこんな所までは観光客も滅多に来なかったし、周辺も今のように整地されておらず、もちろん休憩所も売店もなかったので、我々は玖珠から買って持ってきたフルーツみつまめの缶詰でも食べながら休憩しようと草原に腰を下ろしたが、いざ開けようとすると肝心の缶切りがないことに気がついた。

せっかく持ってきた缶詰をまた持って帰るのも癪なので、なにか方法はないものかと考えているうちに、ここヘ上ってくる時にバスの中から見掛けた草刈り小屋に、手ぬぐいの鉢巻きをした熊襲のようなおじいさんがいたのを思い出した。そこまで戻って缶切りがないかどうか聞いてみることにした。缶切りなどある道理もなかったが、「とにかく聞いてみるだけ聞いてみよう!」と、その草刈り小屋まで戻ったのだが、これが思いがけず遠かったが、缶切りが欲しくて、見晴らしの悪い茅の草原を縫う細道をどんどん下った。
 
やっとたどり着いた小屋には、さっきのおじいさんがいたが、尋ねてみたら缶切りは案の定なかった。こんな山のなかの草刈り小屋に缶切りなる道具がある道理がない。それでもおじいさんは事情を知ってたいそう気の毒かって、私がなんとかしてあけようといろいろ工夫してくれ、結局、大きな鉈(なた)をもちだしてきて、それで缶の蓋をすこしづつ切り裂いて開けてくれた。

たった一つの「フルーツみつまめ」の缶詰は、こうしてどうにか開けることができたが、開いてみると中味はほとんど寒天と蜜柑の実ばかりで、小豆はほんの少ししか入っていなかった。皿もなかったことだし、おじいさんに分けてあげるわけにもいかず、お礼を言うのもそこそこに小屋を出て、照れくささに歩きながらこれを回し合ってすすった。

缶切りを忘れたばかりに、我々にとってこの大観峰は忘れ得ぬ思い出の場所となった。今日では、われわれは玖珠から車なら一時間もあれば楽に大観峰まで行けるが、外輪山の尾根伝いに続く素晴らしい道路、立派に整備された駐車場、冷たい牛乳や焼きトウモロコシを売っている休憩所、売店などはあの当時の大観峰の趣とは全く別のものである。


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夕暮れの湖面の波紋

話は前後するが、ソウギョ(草魚)という魚をごぞんじだろうか。中国原産とされ、水中に生える雑草を食べてくれる益魚ということで田圃の草取りを少しでも楽にしようと導入したものらしかったが、母の生まれ故郷、大分県日田郡五馬村(いつまむら)の出口(いでぐち)という部落の水源地である曽田台(そたんだい)の曽田ノ池では、戦後このソウギョが自然繁殖して大いに増えたことがあった。曽田台は阿蘇外郭の高原にあり、ここには二つの堤(農業用水の溜め池)があるが、場所柄、総称で曽田ノ池と呼ばれている。ソウギョはなぜか上の堤だけに棲んでいた。

われわれは大観峰でひと休みしてから再びバスに乗って、今度は杖立(つえたて)温泉まで足を延ばした。この杖立温泉から湯ノ見岳(七四〇m)を越えて、母の実家がある出口の部落まで、その曽田ノ池のそばを通って歩いてやろうというわけである。この辺りは豊後の出口(大分県)と肥後の小国(熊本県)の国境にあたり、右手には亀石山(九四三m)がそびえている。その尾根伝いにいけば向こうはもう山浦で、万年山を越えればもう玖珠も近い。

この山にはその名のもとになった亀石というのがあるそうだ。亀の形をしており、これが南の小国の方を向くと小国の金をたべるので出口側が栄え、北方を向けば小国が栄えるという言い伝えがあったが、あるとき出口の人が山に登って亀石の頭を強引に小国の方に向けてしまったそうだ。それ以来、はたして小国より出口の方が栄えたのかどうか私には判断が出来ないが、子どもの私にもどうも山間の寒村である出口よりも温泉があって小国の方が景気が良さそうに見えてならなかった。

当時、杖立から先は、中津江から流れてくる川が大山川と一緒になってつくる渓谷に沿って日田に出る道路はあるにはあったが、もちろんバスの便もなかったので、出口部落へ行くにはこの渓谷沿いに行くのは大変な大回りとなり、それよりも山を越えて徒歩で行く方がよほど早かった。幸い兄は山歩きが好きだったし、もちろん玖珠育ちの私は山歩きはお手のもの、山越えで歩いていけばお金の節約にもなるというのでわざわざこういうルートを選択したのだったが、杖立の町の裏側にそびえる湯ノ見岳は高く、実際に山に入って見ると見掛け以上に険しかった。

それで私たちは気楽に考えて山越えにかかったのだったが、頂上へ至る登山道は意外に遠く、しかも三合目、四合目あたりからだんだん上り坂が急になってきた。助かったのは湯ノ見岳への道順が判りやすかったことで、我々には初めての道だったにもかかわらず標識もしっかりしていて、大いに苦労はしたものの、結局一度も迷うことなく峠を上り切った。遠く北側の高原を見やれば、右手に上万年(うわばね)が一段と高いところに崖の岩肌を夕日に輝かせており、どちらをみてもそこに連なる重畳たる山なみは、あの山々の谷あいのどこに人が住んでいるのだろうかと思わせるほどの、山また山の景色だった。

景行天皇や日本武尊が熊襲征伐に西下したころは、まだこの辺りの人口も今よりずっと少なかったはずだから、イノシシやキツネやオオカミなどもたくさん生息していたにちがいない。私は峠から、我がふるさと豊後森とおぼしき方角を見やりながら、兄に「さあ、行くぞ!」と声を掛けられるまで、いろいろな野獣が跋跨したであろう太古の時代を想像していた。

杖立温泉を出たのが三時半を過ぎていたので、私たちが峠を越えて曽田ノ池にたどり着いたときはもう辺りがだいぶ薄暗くなっていた。 汗をかきながら上りきると急に見晴らしがよくなり、前方には遠く筑後方面の山々が見えた。曽田ノ台高原は日中の暑さが嘘のように涼しく、私たちは高原を足取りも軽く下っていくと、やがて右手にふたつある曽田ノ池のうち上の池の湖面が光って見えてきた。まだ出口部落まではここから三十分くらい下って行かねばならないが、とにかくもう後は下り一方なので気は軽かった。私たちは口々に冗談などを言い合いながら飛ぶように下っていった。

草っ原には牛や人が通る小さな道が湖に沿って続いており、私は少しも疲れていなかったので足取りも軽く、ややもすると二人よりも先行しがちだった。そのうちに恵美子姉が不意に「キャッ」と叫ぶと、後ろを振り返りながら急に私の所へ走って追いついてきた。振り返りながら指差していうには、あそこで何かぐにゃっとしたものを踏んだ、というのである。恵美子姉はそれが蛇だったように思えたので怖くなって走ったのだそうだが、ヘビらしいものがいる気配はしなかった。

もし踏んだのが本当に蛇だったとしたら、それがマムシのような毒蛇でなくて幸いだった。こんなところでマムシに噛まれでもしたら、それこそたいへんである。彼女はまさか暗くなってまでこんな山の中の草原を歩かされるとは予想もしていなかったので、スマートなよそ行きの赤い革靴しか履いておらず、薄い靴下は履いているものの、足の甲もほとんどむき出しである。だからもし誤って毒蛇でも踏もうちのなら、それこそ蛇にどこを噛まれても不思議はない無防備状態であった。さいわい彼女は噛まれた様子はなかったので、蛇を踏んだと思ったのは勘違いで、牛の糞かなにかを踏んだものらしかった。

いずれにしても、もう辺りは暗くなってきているし、これからまだ不慣れな暗い谷沿いの道をだいぶ下っていかねばならないので、私たちは気も急いていてそんなことに構ってはいられないという気持ちになり、とにかく先を急ごうとそれぞれ小走りに下りはじめた。

山村育ちの私は山歩きなら得意である。私はうねうねと道伝いに下っていく兄姉をやり過ごしてから、曽田台の池沿いに緩やかな斜面になった草原をまっすぐ突っ切って走り下っていった。ちょうどそのときである。右手の岸に近い湖面から俄かに大きな波紋が広がって、なにかとてつもない大きなものが潜ったような気配がした。何だろう! 河童かな。こんなところで河童や狐にだまされてはたまらない。怖くなった私はそれが何だったか確かめもしないで一目散にどんどん下っていって、兄姉が下ってくる道に先回りして、二人が下りてくるのを待った。

その時はまだ、この池にソウギョという巨人魚がいることなど知らなかったが、あとで冷静に考えてみれば、あの波紋はきっとそのソウギョの仕業だったろうと想像しただろう。

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豪快なソウギョ釣り

ソウギョ(草魚)は成長が早い。この曽田ノ池のうち、とくに上の池には体長一メートルを超える大物もたくさんいて、見掛けはあまり美味しそうな魚ではなかったが、これを捕るスリルが人気で、農閑期には出口の近所の人たちが大人も子供も一緒になって釣りをやっていた。
 
ソウギョ釣りは、まずフライパンで炒ったサナギを擦りつぶし、これをメリケン粉と混ぜ合わせてタンゴをつくる。これを餌に、太い紡績糸に大きな針をつけた仕掛けをつくって、鈴をつけた三〇センチほどの短い丈夫な竿に結びつけておき、これを岸辺の土にしっかりと立てておいてから、仕掛けを思いっきり遠くへ放り込む。

餌にするタンゴには普通カイコ(蚕)のサナギが使われる。当時はカイコはどこの家でも飼っていたから、繭(マユ)から絹糸を取り去ったあとに残るサナギを利用するのは一種の廃物利用である。サカナ釣りの餌にはカイコのサナギのほかに蜂の幼虫もよく使った。
 
仕掛けを放り込んだあとは、首尾よくソウギョがこのタンゴに食いついてダイダイと引っ張り、鈴が鳴るのを待っていれば良いのだが、ただじっと待つのは退屈なので、大抵はその釣糸からあまり離れないように堤に入って泳ぎながら待つのである。他の魚とちがってソウギョはその姿から想像できるように余り神経質な魚ではないので、釣糸の近くで泳いでも釣れるときは釣れるのである。

私は一度、出口の従兄に連れられてこの池に泳ぎにきたことがあるが、そのとき、どこかのおじさんが実際にソウギョを釣り上げたのをみたことがある。それはソウギョとしてはあまり大きい方ではなかったが、これを引っ掛けたおじさんは、とにかく魚が湖底深く潜ろうとするのを、そうはさせじと胸まで水に入っていって、糸を切られないように慎重に暴れる魚をあやし続けた。

ずいぶん長い格闘が続いたあと、やがて水面に躍り出たソウギョは、それでもまだ白い横腹を見せながら物凄い水飛沫を巻き上げて暴れ回り、手繰り寄せられるまでは釣り手をずいぶんてこずらせていた。私はドンゴロスの袋に収まったソウギョを側まで見に行ったが、ドンゴロスの袋に入れられて水際につけられてあったその獲物は私の体とほぼ同じくらいの大きさで、それまで私が見たどんな魚よりもおおきかった。その魚には袋が小さすぎたので、ソウギョは水に漬けられた袋の中で窮屈そうに体を曲げて口をパクパクしていたが、それはいつか上ノ市の堰の上でとれた大きな斑鯉よりももっと大きかった。

大きなソウギョは釣れてもこれを持ち帰るのが大変なので、たいていは入れ物にこのようなドンゴロスの大きな米袋を用意していき、釣れたら大黒様よろしくこれに入れて肩に担いで持ち帰るのである。


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怪しい水音

子供の頃、私はよく出口に遊びに行ったが、やはりある夏の日のこと、面白いものを見たことがある。

出口の家はすぐ裏に山が迫っているが、ある夜中、小便に起きた家人が裏の山の中腹に火が見えるといって騒ぎ出した。私たちも起きて表に出て山の方を見やったが、なるほど杉山のずっと上の方に丸い小さな火が明かあかと燃えている。誰れ言うとなく 「狐火」らしいということになった。私は「ははア、これが狐火というものか」と初めて見るこの不思議なものをじっと見ているうちにすっかり目が覚めてしまった。しばらく見ているうちに火はだんだんと小さくなってきたので皆んなは家に入って寝てしまった。私はそのあともじっとその火を見つづけた。最後にあの怪しい火がどうなるかを見とどけてやろうと考えていたのである。

ところがである。件(くだん)の狐火はだんだん下火になってくると、辺りの木々に反射している明かりからすごい煙が出ているのがわかってきた。狐火なら蜃気楼かなにかだから火は見えても煙は出ない筈である。その出ない筈の煙がますます濃くなってもくもくと上がっている。そのうちに、その火明かりのなかに人影がチョロチョロ勳いているのも見えてきた。狐火どころか、こんな夜更けに誰かが山の斜面で焚き火をしているのだということがだんだんはっきりしてきたのである。
私はあの人達がこんな夜中になぜ山の中で火を焚いていたのだろうかと、ふたたび布団に潜ってからも訝しく思っていた。

それから小一時間ほど経つただろうか。蔵のうしろの小道を二、三人の男がガヤガヤと話しながら下ってきた気配である。そっと廊下に出て覗いてみると、男達はそれぞれが手に笊やら竹棒やらを持っている。また家人が起きだしてきて「どげえしたん」とその男達に声を掛けた。始めのうちは「何んでんなか」と済まし通り過ぎようとしていた男達も、家人が「ばってん、火を燃やしよったんじゃなかね?」と詰問すると、ニヤニヤしながら「実はおおきなダンゴバチの巣を取ってきた!」と言った。どうやら夜中に蜂が眠っている隙に蜂の巣を松明で燻して、ひと抱えもある大きなダンゴバチの巣をそっくり頂いてしまったというのである。人騒がせな狐火は、何のことはない、ソウギ釣りの餌にする蜂の幼虫を採る男達の仕業だったのだ。

玖珠からそう遠くないのに、このあたりではよく「ばってん言葉」を使っていた。ばってん言葉は長崎が本場だが、むしろ日田市に近いここでなぜこんな方言が使われているのだろうか。地元の人達は私たちが話しかけるとわかりやすい言葉で対応してくれるが、土地の人同士で話している言葉はほとんど理解できない。このあたりでは寒い冬の朝などに道路で人と行き合うと、お互いに妙なアクセントで「あさばんなコリャー」と挨拶する。

子供だった私は、あれはいったい何語なんだろうかと不思議に思ったが、慣れてくると何のことはない、意味はよくわかるのである。「あさばんなコリヤ」というのは、標準語風にいえば「朝晩はこりゃアー」で、「朝晩はこの頃はめっきり冷え込んできましたね!」という意味なのである。それを「朝晩はこりゃ!」というところで、後は省略してしまうのである。

話がそれたが、ダンゴバチの幼虫は大きい。私たちは(エを釣るのによくアシナガバチの幼虫をつかったが、小さな蛆虫のような幼虫は、針に掛けると体の皮が破れて黄色い半透明な汁が出てしまうので、仕掛けを二、三度水中にいれると、もうふやけてしまって使い物にならなくなった。そこへいくとダンゴバチの幼虫はさすがにもっと大きくて丈夫である。ソウギョはこのダンゴバチの幼虫がことのほか好きだったようである。

そのころ出口では、子供の私にとってはたいへん興味深い噂が流れていた。それは初夏のある朝早く、くろぎり(朝暗いうちに牛馬の餌となる草を刈ること)に行く途中、曽田台を通りかかった出口部落の若者二人が、堤の側を通り抜けようとした際、水面に顔を出していた何かが水音高くガバッと潜るのを見たことがあったというのである。その二人はすっかり驚いて、帰ってくるなり部落の人たちに「曽田台には何か怪しいものがいる」といいふらした。

「何か」といっても、まさかカバやワニがいるはずはないだろうから、部落の人達もきっとイタチかカワウソでも見たのだろうと、誰もあまりまじめには考えなかったが、目撃者たちは「いや、とてもそんな小さな動物ではなかった!」と言い張っていた。そのうちにまた別の人が同じように何かが泳いでいるのを見て、やはり何か得体のしれない大きな怪物が棲んでいると言い始めた。

こうなると噂は噂を呼び、今でいえばさしずめネッシーか、池田湖(鹿児島県の開聞岳の麓に広がる火山湖)で目撃されたという怪獣「イッシー」の噂みたいに、おもしろおかしく広まっていった。しかし、その正体はすぐにソウギョであることがわかって、私たちはがっかりしてしまった。

早朝、ソウギョはまだ人影もない水面に出て呼吸するが、そんなところに人が知らずに近づくと大慌てで急に潜るので、水面が大きく泡立ち大きな水音がするわけである。ソウギョとわかってもいて、誰もいないところでそんな大きな水音を聞くのは余りいい気持ちはしないはずである。恐らく、全国各地、いや世界中で湖や沼のあるところで伝えられている怪物の話は、この種のものが多少誇張されて伝わったものが多いことだろう。潜る時の魚が作る水音と水紋は、たしかに魚とは思えないほどのものができるからである。


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アブラメと遊ぶ

曽田台の堤にはソウギョのほか、コイ、イシバエ、ナマズなどもいて、よく私たちが泳いでいるとイシバエの子が群れ寄って来て身体のあちこちを突つくので、くすぐったかった。おできや転んで擦りむいた膝などはイシバエにとっては格好の突っつき場所と見えて、体長わずか二~三センチのメダカのような小さな魚までが人間の体をつつくのである。こうした可愛らしい習性をみていると、体は小さくてもやはりこの魚はかなり貪欲な肉食魚であることがわかる。

北海道に棲む鮭鱒科の猛魚イトウは、水面をおよぐ昆虫類はもちろんカエルやヘビなどの小動物も食べるようだが、まれには水辺に現れた野うさぎを襲ったりすることもあるらしい。つかまえたイトウの腹の中からまだ消化しきれない小さなウサギが出てきたという話を聞いたことがある。九州の山間部にはさすがにイトウのような大きな猛魚はいないとされているが、もしこのイシバエが巨大化したなら、ずいぶん恐ろしい魚になるにちがいない。

一般に水圧がかかる深いダム湖や堤に棲息するコイやナマズは想像以上に大きくなることが知られているが、大きな湖では稀れにとんでもない大きなフナが採れたりするする。深い水底にはどんな大きな魚がいるかもしれないから、このイシバエだってそのような大物が絶対にいないとは言い切れないはずである。

さて、曽田ノ池から流れ出る水は出口部落に至る渓谷を急流をつくりながら流れ下っているが、この渓流には昭和三〇年ごろまではアブラメが沢山いた。私は自分が育った森川では全く見ることのなかったこのアブラメが珍しくて、出口にいる間は毎日のようにこのアブラメ釣りに熱中した。

アブラメは地方によってはアブラハヤとも呼ばれているようだが、その名のとおり全身が油を塗ったようにテカテカ光っている。釣り上げて針を外そうとしてもなかなか元気がよくてピチピチ暴れ、その上スルスルとすべってなかなか掴まえにくい。普通のハエ、シラハエも釣り上げて水面から引き抜くときにはビンビンと跳ね暴れるが、手に掴まえると大抵はおとなしくなる。

ところがこのアブラメは小さい体に似合わず元気がよく、まるで全身バネのようにピチピチと跳ね回って最後まで抵抗する。釣れたアブラメを不用意に水辺で釣針から外そうとすると、針から外れた瞬間から大暴れするので、しばしば取り落としてしまい、慌てて掴まえようとしても体の小さいアブラメは、なかなか手にかからずスルスルと逃げ回って、そのまま水の中に逃げ込んでしまうという失敗をよくやる。このあたりではアブラメはハナクソでも釣れるほど鈍い魚とさており、味もさして良くないといわれているので、どこでもあまり高い評価は得ていなかったが、私は渓流にしか棲まないこの清楚な姿の魚が大好きだった。

川底の小石まで、まるで手に取るようにはっきり透けて見えるような澄んだ清流も、水が落ちるところでは結構深い黒々とした淵になっている。小さな渦を巻いている淵のゆらゆらした底のほうに、黒いアブラメらしい魚影がひと塊りになって群れ泳いでいるのを見るのは何ともいえない幸せなものである。

昭和二十四、五年ごろまでは、この曽田ノ池から出口に流れ落ちる谷は、ずっと下って集落の中を流れ抜けてもまだ水がキレイで、私は夏休みに出口の母の実家に行くと、蔵の後ろを流れ落ちる谷川で飽きることなくアブラメと戯れた。幅ニメートルにも足らない小さな谷川は流れが急だが、いたるところに大きな岩がごろごろしており、谷川は少し流れては岩を乗り越え落ちて、あちこちに小さな淵をつくっていた。

私はよく短い釣竿につけた手製の釣り道具をもって、あっちの岸に渡ったり、こっちの岸に戻ったり、アブラメの魚影につられて淵から淵へと小さな谷を夢中で上って行った。ふと気がつくと随分上流の方まで上がってしまって、渓谷は両岸がそそり立ち、谷川沿いの小道が頭上はるか高い所になっていて、もとへ引き返すのも、またその山道に這い上がるのも、難しいほどの谷奥まで入り込んでしまったことが何回もある。

この谷は、後に長期にわたった松原ダム反対運動で有名になったあの「ハチの巣城」の大山川に流れ込み、最終的には筑後川となって有明海に流れ込むのだが、同じ大分県でも玖珠のすぐ隣りで、全く同じような山から流れ出る川に見えるのに、エノハといい、イシバエといい、このアブラメといい、どうしてこうも棲む魚の種類がちがうのか不思議な気がする。いずれも森川にはいない魚である。

こひー6


毋の思い出

出口(いでぐち)は私の母の故郷である。母は少女時代をこの平和な谷間の小さな村で元気に過ごしたはずだが、その母も少女時代にはこの山紫水明の山奥の村で、アブラメを追いかけたりしながら楽しくすごしたのだろうか。私は満三才で母と死別したので、母のことはほとんど記憶がないが、ここはその母が若い時代をすごしたところだけに、私には人も自然も何となく優しく懐かしい感じがして好きだった。母はどういう行き掛かりがあったのか知らないが、同じように山奥の森で育った父と知りあい、結婚して東京に出た。

当時は、こんな山奥から東京の大学に行くなどという奇特な人はほとんどなかったから、早くから工学博士として早稲田大学で教鞭をとっていた父は、田舎町の森町では郷社出身の少ない偉人の一人に加えられていたほどである。私が森小学校に通っていた頃は、職員室の壁には郷土豊後森出身の偉人と呼ばれる人たちの顔写真が額に納められて飾られてあったが、その中に私の父もいて恥ずかしかった。父が若い頃に発見した「帆足・ミルマンの定理」というのは、今でも電気の回路理論を学ぶ人には大事な法則らしいが、残念ながら文系の私にはそれがどんなものか皆目わからない。

さて、この出口の山里で育った母は、人伝てに森から東京に出ていた父を紹介されて見合いをしたのだろう。二人は結婚して東京の中野に新居を構えた。ちょうどあの哲学堂の近くで、新しく家を建てるというのでそれを見に行った。当時父の名義上の養父となっていた祖父は、高台に建てつつあった家を見るなり、「せっかく建てるのなら、こんな藪だらけの山の上にしないで、もっと川端の涼しいところに建てたら良さそうなものを!」と言ったそうだ。当時は妙正寺川も清流が流れ、夏はホタルが飛び交っていたといい、まさか今の川のように汚れて臭うようになるなどとは予想もつかなかっただろうから、田舎から家を見に行った祖父がそう言ったというのは確かにうなづける。

そんな良い環境だったのに、なぜか母は私を生むとすぐ胸を患い、私が四つになるのを待たずに死んでしまった。すでに私より上に兄二人、姉二人を生んでいたから、近くに親戚も身寄りも全くない不慣れな都会の生活がきつかったのかもしれない。

私の母の思い出といえば、長い間家で寝たきりになっていた彼女が、中野の療養所へ入るため家に迎えにきた黒い自動車に、布団に横たわったままで乗せられるとき、ひとり庭で遊んでいた私に向かって「さようなら」と言うのを聞いたことぐらいしかない。きっと母はそのとき、もう自分がこの家に戻ってくることはないことを悟っていたのだろう。それだけに幼い私を残して、隔離病院に入らなければならない事態を、どんな気持ちで受け止めていたのだろうかと考えると、今でも私は哀しくなる。

定かではないが、私は母が入院したあのころ、よく怖い夢をみた。どうしてだか、いつも黒い着物を着た母が夢の中に出てきて、どこか分からない家の高い縁側から土間に逆様に落ちて、口におびただしい土をくわえ、それをゲエゲエ吐きだすのである。そして今度は、やはり黒い着物を着た父がどこか遠い夜道を、ヒュウヒュウ吹きすさぶ風に立ち向って泣きながら急いでいる夢である。夢の中ながらも、私は男の父がなぜ泣くのか不思議に思ったものである。

私は大きくなってからも、父が死んだ毋のことをほとんど語らなかったことに感心している。母の墓は玖珠の田舎にあって、父は帰省したときは必ず墓参りをした。私は、父が東京でほとんど死んだ母のことをあまり話さなかったのは、きっと後から来た新しい母に気配りをしてのことだったろうが、誰に聞いても「優しい、いい人だった」という母の生前の評判からして、母はきっと父にとっても優しい、いい妻であったに違いなく、そんな母のことを自由にしゃべることをはばかった父の心情は、思いやるのも辛いものがある。

私はアブラメが棲む清流のほとりに一人たたずんで、この出口部落の静かな景色を眺めていると、きっと活発な可愛い少女だったに違いない母の幼い頃の姿が思い浮んでくるようで、なぜだか分からないが東京で死んだ母のことが忍ばれて、いつもこうした切ない感傷に浸るのだった。幼い頃、近所のおばさんたちから若かった頃の気立ての優しかった母のことをよく聞かされていたので、きっとそんな印象が私の心の中に形作られていたのだろう。


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