たたみ一畳の芸を、大舞台の芸に高めた人
武原はん 川村二郎
徳島に生まれた阿波踊りの好きな少女が大阪・宗右衛門町「大和屋」の芸妓学校に入ったのは小学校を出たばり12歳のとき。足が長く、肩もいかり肩だったために、踊りには向かないといわれたが、狂言からおはやしまで芸事百般を仕込まれ、14歳のときには一本立ちの芸者になっていた。
十代のおわりには歌舞伎の名優も認める踊り手になり、地唄舞の素地も身につけていたが、はんさんが地唄舞を専門にするのは、大阪から東京へ出てきてからのこと。とくに、後に代表作となる『雪』が高い評価を受けるようになるのは、資産家の次男で、美術評論や装丁家としても高名だった青山二郎と結婚してからである。骨董や浮世絵のとびきりの目利きでもあった青山の家には、評論家の小林秀雄をはじめ、そうそうたる文人たちが出入りしていた。
生涯で一度の結婚は3年余で終わったが、その間に美術品を見る目も養われたし、文人たちとの会話は持ち前の向学心を剌激し、芸の内面を磨くうえで役に立ったようである。
青山と別れて料亭の女将となり、6つ年上の作家、大仏次郎を知るのは敗戦から4年後の、46歳のときである。大仏家の養女、野尻政子さん(68)によると、大仏次郎は品格をあらゆるものの評価の基準にしたが、「おはんちゃんは品がいい。僕は、おはんちゃんの演出家だ」といってはばからなかった。
そのころから舞台に置くものを銀の屏風一つにしたり、背景を抜けるような青一色にしたり、はんさんの舞台は洗練の度を加え、舞も、動きを極度に抑えて緊張感をまし、「畳み一畳の芸を大舞台の芸にまで高めた」といわれるようになった。
大仏次郎が『天皇の世紀』の新聞連載を始めると、はんさんはその連載の終わるまでの5年間、酒と肉食を断ち、毎日写経をして祈り、亡くなると葬式にも参列した。 70歳のときのことだが、それからの『雪』は、別れた人を思うせつなさがえり足のあたりに出ていて、「心にしみました」とごく親しかった「大和屋」の女将、阪口純久さん(64)はいっている。
4年前の国立大劇場が最後の舞台となり、それからは、舞について語ることはなかったという。5日の夜は、美しいまま眠るように逝き、はんさんの棺には『雪』の舞台衣装とともに、大仏次郎の写真も納められた。