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最後の授業 4
私はここ数年、自殺した子供たちの遺書を集めていました。いったい子供たちはどんな言葉をその遺書にかきとめて死んでいくのかを知るためでした。これまで沢山の遺書を読んできました。その遺書はどれも悲しくつらいものです。しかしいずれも貧しく幼稚な文章でした。どうしてこのような貧しい言葉を残して死んでいくのだろうか。なぜこんな幼稚な文章を書いて死んでいくのだろうか。そういう疑問がいつもいつも私のなかにわきおこっていきます。瀧沢君の葬儀のとき、私は瀧沢君のお母さんにきびしくつめよられました。隆をほめてください、力いっぱい書いた遺書を残していったのです、家族にとっては世界一美しい遺書です、どうかほめてやって下さいといわれたとき、私は一瞬くずれかねないばかりでした。なにもかも投げうってお母さんのいわれる通りにしようと思ったほどです。しかしそれはできませんでした。あの遺書をほめることはできません。美しい遺書でもありません。私はあの遺書を強く批判しなければなりません。あの遺書を憎まなければなりません。ああいう遺書を書かせる教育を、ああいう遣書を書いて自殺される教育というものを。
あなたたちにとっては遠い昔、しかし私たちの年代にとっては近い近い昔、この日本は世界と戦ったことがあります。第二次大戦とも太平洋戦争ともよばれる大規模な戦争でした。戦争ではいつも最前線に立って戦うのが若者たちです。この戦争でも国家は日本の若者たちをこの最前線に立たせました。そして夥しい数の若者たちが散っていきました。その若者たちが残した遺書がたくさん残っています。その遺書をみるときほとんどが、天皇陛下万歳だとか、日本のためとか、これまで育ててくれたお母さんありがとう、お母さんを天から見守りますといった言葉しか書かれていません。ほんとうに日本の若者たちは、その遺書に書かれた通りの気持ちで死んでいったのでしょうか。そうではありません。若者たちのなかにさまざまな感情がはげしく渦まいていたはずです。あふれるばかりの悲しみや嘆きや怒りや絶望の渦がグルグルとうねっていたはずです。しかしそれなのに彼らは決してその感情の渦を遺書のなかには残そうとしませんでした。なぜでしょうか。それは日本の教育がそういう遺書しか書けないような教育をしてきたからでした。もしそのとき若者たちが遣書のなかに、彼らのなかにあふれる感情の暴風雨こそ絶対的な真実だとして、その感情の渦をしっかりと書くことができる力をもっていたとしたらどうだったでしょうか。
彼らはその遺書のなかに、かならずその苦しみを書いていくはずです。死に対する恐怖も書いていくでしょう。そして生きることの眩しいばかりの意味もまた書いていくでしょう。そして言葉をどんどん深くしていくとき、当然彼らは人間をこんな苦しい状況のなかに追い込んでいく戦争のことを書いていくでしょう。なぜ人間は戦争をするのか。なぜ国家は人間を戦争などに駆り出すのか。国家とはいったいなんなのか。人間はみんな国家の犠牲にならなければならないのか。人間は自由を求めてはいけないのか。一人一人が自由に生きることは許されないのか。そうなふうに一人一人の思考を深めていくはずなのです。死と対面しているのです。いま死がそこまで迫っているのです。思考を深めないわけにはいきません。しかし日本の教育は若者たちにそういう思考をさせない教育をしてきたのです。天皇陛下万歳とか、日本のためとか、お母さんありがとうといった言葉でいっさいを終結してしまう教育です。それは考えてはならぬ。一人一人の考えなど必要ない。悲しむとか絶望するとかいった感情もいま必要ではない。ただこの一戦に生命をささげることこそ必要なのだという教育をしてきたのです。ですからあの戦争で、日本の若者たちは考えることを拒否した、あるいは切り捨ててしまったような遣書しか書けなかったのです。
自殺した子供たちの遺書を読むとき、その遺書とあの先の大戦で倒れていった若者たちの遣書が重なってみえていきます。苦しみが書かれていません。考えることを捨て去っています。自殺した子供たちは、その遺書にいじめられたと書きます。もう苦しみにたえられないと書きます。もう自分は駄目な存在だと書きます。もう生きていけないと書きます。そこでその遺書は終結しています。それ以上の言葉は書かれません。そこですべて打ち切ってしまう遺書なのです。瀧沢君の遺書もまたそうでした。もし瀧沢君が自分に襲いかかった苦しみを、しっかりと自分の言葉で書くことのできる子供だったら、彼を苦しめていた五人をただHFlASといった記号で書くのではなく、五人とともにつくりだしたきらきらした冒険の数々や、友情の戦いや、彼らを裏切ってしまった嘆きなどを書いていくでしょう。北海道遠征の夢を断ち切った家族に対する怒りといったこともきっと書くはずです。なぜ五十万円を持ち出さなければならなかったかも、夏期講習に一度もいかなかったその複雑な気持ちも書いていくでしょう。そしてあの台風の後の犀川での出来事も必ず書くはずです。瀧沢君が、彼の存在をぐらぐらと揺らしていったこの数々の精神のドラマを描くことのできる子供だったら、おそらく瀧沢君は自殺という道を選ばなかったと私は思うのです。なぜなら作文とは自己を発見していくことだからです。新しい自分をつくりだしていくことだからです。どんなにそこが暗黒の世界であっても、必ず光の出口があり、作文とはその光の出口を発見していくことなのです。言葉というものが人間のなかに勇気やエネルギーをどくどくと流しこんでくれるからです。
あの戦争のときもし日本の若者たちが、苦しみや怒りや嘆きや、戦争とはなにか、国家とはなにか、個人の自由とはなにかといったことまでしっかりと考え、そしてそのことを書ききる力をもっていたらどうだったでしょうか。世界や日本をしっかりとみつめ、人間や社会を深く洞察していくことのできる若者たちをつくりだすための教育をしていたら、もともとあのような無謀な戦争など起こらなかったはずです。日本の各地が焦土となるばかりに攻撃されてこの戦争に敗れたとき、だれもがそう思いました。ですから戦後の日本の教育は、子供たちを国家や組織や集団の従属物としてではなく、一人一人が人格をもった、一人一人が深く思考できる子供をつくりだすための教育をしょうとしてきました。しかし自殺した子供たちのたくさんの遺書をみるとき、実はなにも変わっていないのではないのか、戦前の教育とまったく同じ教育をしているのではないのかという疑問が、私のなかに痛烈に突きつけてくるのです。
私は国語の教師です。国語の授業ではもちろん漢字が読めたり書けたりすることも大切ですし、文章というものがどういう構成になっているかを知ること大切です。古文や漢文を読み取る力も必要です。しかし私が一番力をいれてきたのは、子供たち一人一人が自分の言葉をつくりだしていく授業でした。作文というとあなたたちはかならず嫌な顔をするのはよくわかっています。しかしいやな顔をされても、教育活動が取り組むべきもっとも大切な仕事は、子供たち一人一人が自分の言葉をつくりだしていく授業だと思ってきたのです。そういう教育を自分でも試み、また仲間の先生たちにもお願いしてきました。そんな教育をめざしてきた私の学校で、私の愛する生徒が、私のもっとも憎むような遺書を書いて自殺したのです。ですから九月十一日という日は‥‥」
そこで校長先生は、またチョークを取って、背後の移動黒板に「日本の教育の敗北した日」と書かれた横に、
篠田政雄の敗北した日
と書きました。それまで曇っていた校長先生の表情がそう書いたあとに、なにか深い苦悩を突き抜けてきた人のように、いつもの穏やかなやさしい表情になり、微笑さえうかべて話しを続けるのです。
「教育の目的は勉強することです。よい点をとって、よい学校にいくこともまたとても大切な目的です。しかし私がいつもその根本に据えてきたのは、一人一人の子供がしっかりとこの大地に立って、しっかりと自分の人生を創造していく力と魂を育てることこそ、教育の最大のそして最後の目的だと思ってきました。しかし九月十一日に、私がめざしていた教育とはまさに反対の、一人の大切な子供を失うというつらく悲しい現実が私につきつけられました。私の敗北です。この日はまた私が敗北した日でありました。
《草の葉ライブラリー》版 高尾五郎著「最後の授業」